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Episode09 決意ノ白刃

僕は、この日を決行日に決めた。 隣の彼が深く眠りに落ちているのを確認し、寝台から降りようとしたそのときだった。 不意に裾を引かれ、心臓が止まりかける。 振り返ると、眠ったままの彼が、僕のシャツの裾を指先で掴んでいた。 冷たい汗が背を伝い、呼吸が乱れた。 鼓膜の奥で、鼓動が荒れ狂ったように鳴っている。 その指先から、しばらく目を離せなかった。 夜が更けても、僕の中の答えは出なかった。 寝台の傍らに立ち、僕は懐に忍ばせていた短剣の柄を、強く握りしめていた。 この短剣だけは、十年間肌身離さず持ってきた。 王城が焼け落ちた夜、瓦礫の中で拾った唯一の遺品だった。 刃は何度も研ぎ直した。 鞘は擦り切れ、革紐は何度も交換した。 それでも、この短剣だけは捨てられなかった。 僕がフィンとして生きる前から。 奴隷になる前から。 復讐を誓ったかの日の僕を、唯一証明してくれるものだった。 この短剣を握れば、あの日へ戻ることができた。 国を失った王子が、復讐を誓ったあの日。 手に馴染んできたはずの重さは、今日だけは何故かひどく遠かった。 眠る顔は、無防備だった。あれほど誰の前でも気を抜かなかった男が、今は静かな寝息を立てている。 この十年、僕がどれほどこの瞬間を思い描いてきたか。憎い敵国の血を引く男が、無防備に喉を晒す瞬間を。 なのに、僕の手は動かなかった。 ――今しかない。 分かっている。 今夜を逃せば、もう二度とこんな機会は訪れないかもしれない。 この十年、僕はそのためだけに生きてきた。 祖国の紋章も、母の最期の声も、城を焼いた炎の色も、忘れたことなど一度もない。 復讐を、この手で成し遂げるために。 だが、いつからだろう。 この男を『敵国の皇子』ではなく、一人の人間として見るようになったのは。 初めて僕の淹れた紅茶を「美味い」と言った朝。 僕が黙って差し出した本を、当然のように受け取ってくれた午後。 僕の前で眠ってしまい、自分でも戸惑っていた夜。 北部三州の民を救うため、私財を投じると告げたときの面立ち。 誰よりも冷徹だと噂されながら、その内側では誰よりも脆く、自分自身の血を憎み、それでもなお正しくあろうと足掻き続けるその姿。 それらを、僕は誰よりも近くで見てしまった。 いつから、彼の不愛想な横顔を探すようになったのだろう。 いつから、彼の足音を聞いて駆け寄るようになったのだろう。 こんな僕を見て、父上は何と言うだろうか。 母上は?あの日、炎の中で泣いていた弟は? 僕を許すだろうか。 それとも、責めるだろうか。 みな、僕が復讐を果たすことだけを願っていると、そう思い続けてきた。 けれど、彼は父帝とは違うということを、僕は知ってしまったのだ。 ゆえに、その願いに応えられない僕がいる。 ――もう、戻れない。 あの日、焼け落ちた城を独り眺めていた朝へも。 短剣を胸に抱き、憎しみだけを噛み締めた夜へも。 彼がどんな人間かを知らなかった僕へも。 今夜、この手を振り下ろせば、僕はようやく十年越しの誓いを果たせる。 眼を閉じれば、昨日のことのように蘇るかの日の光景。 血。炎。叫び声。消えゆく光。失われていく体温。 物陰に身を潜めながら見た、氷のように冷えきったあの眼差し。 十年だ。ずっと、それだけを願って生きてきた。 何を迷うことがある。この手を振り下ろせ。今すぐに。それですべてが終わる。 だが。 瞼の裏に浮かぶのは、血と炎の赤ばかりではなかった。 ――フィン。 僕の名を呼ぶときの、穏やかな声。 思案するとき、僅かに伏せられる双眸。 何かに納得したときだけ緩む口角。 人知れず疲れを滲ませる横顔。 ――僕が、本当に恐れているのは。 目の前で眠るその寝顔に、視線を落とした。 人前では鋭い色を帯びる瞳は瞼の裏に隠されて、長い漆黒の睫毛がそれを飾る。 いつもは固く引き結ばれている唇は、ほんの僅かに開かれていた。 常の面立ちからは想像もつかないほどに、その寝顔はあどけない。 この男を殺せば僕はもう二度と、あの声を聞き、あの温もりに触れることができなくなる。 静かな声で、名を呼ばれることも。 安堵したように緩む、眼差しを見ることも。 震える指先で、自分が刻んだ傷に躊躇いがちに触れてくる、あの不器用な優しさに触れることも。 戻りたい。 この男を、ただ憎み続けていた頃へ。 戻りたくない。 この温もりを知ってしまった今となっては。 ――僕は、いつの間にこんなにも。 刃先が、月明かりを鈍く反射した。 喉元まで、あと僅かの距離だった。 これ以上、この距離を詰めれば。 これ以上、この男の傍にいれば。 僕はもう、後戻りできなくなる。 復讐者としての僕でいられるか、それとも――もっと違う何かに、成り果ててしまうか。 答えの出ないまま、僕はただ、刃を握りしめて立ち尽くしていた。 眠る顔を見下ろす。憎むべきはずの、敵国の血を引く男の顔を。 なのに今僕の目に映るのは、ひどく不器用で、それでも正しくあろうとする、一人の脆い人間の顔だった。 ――ごめんなさい。 誰に向けた謝罪かも分からぬまま、僕はそう、音にならない声で呟いた。 失われた祖国にか――或いは死んだ父と母と弟にか。 それとも今まさに、殺そうとしているこの男にか。 刃を持つ手に、力が籠る。刃先が、喉元へ近づく。 あと指一本、あと半寸、あと一息。 鼓動さえ聞こえる距離で、僕の手はよりいっそう震え出した。 殺さなければ。 それが、僕が生きている理由なのだから。 殺したくない。 僕が、僕であり続けるためには。 呼吸が浅くなり、指先が汗で滑った。 今だ、と何かが急かす。やめろ、と何かが縋る。 殺せば終われる。 殺さなければ、始まってしまう。 短剣は、とうとう最後の一寸を越えられなかった。 その時だった。 閉じられていたはずの瞳が、不意に開いた。

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