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Episode10 裏切リノ花【R18】
閉じられていたはずの瞳が、不意に開いた。
刹那、視界が反転した。
背に硬い床の感触。同時に、短剣が床へ落ちる硬質な音が響く。
押し倒された、と理解するより早く、喉元に手がかかっていた。
「――お前」
地を這うような声音だった。
見上げた先にある双眸は、いつもの冷徹な光を湛えてはいなかった。
何か得体の知れないものに炙られているような、そんな眼差しが僕を見下ろしていた。
「殺そうとしたな、この俺を」
「――……ッ」
答えられなかった。喉を締め上げる指の力に、声を出す余地などなかった。
けれど、その手はひどく震えていた。
憎悪だけでは、こんな震え方はしない。
怒りだけなら、こんな眼にはならない。
「殺すつもりなら、最後までやれ」
怒鳴ることをしない、絞り出すような声だった。
「――なぜ、やめた」
その問いに、僕は瞠目した。
責められているはずなのに、まるで「なぜ殺してくれなかった」とでも言うような、矛盾を孕んだ響きだった。
その声が湛えるのは、怒りよりも畏怖に近かった。
信じていた何かを壊されてしまったような、そんな人間の声だった。
「答えろ」
指の力が緩んだかと思うと、今度は胸倉を掴まれ、乱暴に引き起こされる。
至近の距離で、彼の目が不安定に揺らいでいるのが分かった。
怒りとも、恐怖ともつかないその色を、僕は激しく咳込みながら見ていた。
「お前が握っていたそれは何だ。随分と古びた短剣だが…まさかずっと、俺を殺すために持っていたのか。ならば何故、今まで黙っていた。なぜ――」
声が、途切れる。
揺れ動く感情に、言葉がついてこないようだった。
「なぜ、俺の前で平然としていられた」
その一言に、僕は何も返せなかった。
それは詰問というよりは、傷ついた者の、行き場のない叫びのように聞こえた。
「答えろ、フィン」
名を呼ぶ声が、今までとは違う響きを持った。
その声音は刃のように鋭く、しかし捨てられぬようにと必死に縋りつく子供のようでもあった。
胸倉を掴まれながら、頬をぶたれた。
乾いた音が、静かな寝室に響く。
「お前は、ずっと俺を騙していたのか。全部――嘘だったのか」
再び手が上がる。今度は掌ではなく、拳だった。
僕はそれを、避けなかった。じっと、振り下ろされる瞬間を覚悟して待っていた。
だが拳は途中で止まり、彼は信じられないものを見るように、自分の手を見つめていた。
「――くそっ」
低く吐き捨てて、拳は寝台の柱に叩きつけられた。木が軋む音がした。
僕を打つ代わりに、己を痛めつけるように。
それは本来、僕へ振り下ろされるべき拳だった。
一度ぶたれた頬は、爛れるように熱かった。
「言え。何か言え、フィン。違うと。殺すつもりなんかなかったと。頼むから――……」
声には、もう怒りだけではないものが滲んでいた。懇願に近い響きだった。
僕は、口を開いた。
だが、言葉は出てこなかった。
「殺すつもりだった」とも、「殺せなかった」とも、そのどちらを言っても、彼を更に傷つけることになる気がした。
その沈黙が、また火に油を注いだ。
「――そうか。何も言うことはないか」
殿下の声が、一段低くなった。
滲んだのは、凍りつくような静けさだった。
再び僕の首に手がかかる。今度は、先ほどより力が篭っていた。
「なら、いっそ」
その先に続く言葉を、覚悟した。
刃を振り下ろせなかった以上、それならそれで良いかとも思えた。
すべてを受け入れようと眼を閉じかけたとき、間近にある双眸の奥に、消えない光を見た気がした。
「殺せなかったんだろう、俺を」
指の力が、僅かに緩む。
「なら――」
続きは、声にならなかった。
代わりに、荒々しく唇が塞がれる。それは口づけと呼ぶには、あまりに乱暴で、あまりに切実だった。
吐息さえ奪わんとするような、噛みつくような口づけ。
息苦しさに唇を開けば、さらに深くを貪られた。
後ろ髪を掴まれ、逃れることはできなかった。
「んっ……んぅ……」
苦しい。空気が足りない。頭の中が、くらくらした。
だけどそれはきっと、この狂暴な口づけのせいだけではなかった。
ようやく離れていく。
殿下の手に顎を掴まれ、僕はされるがままに上を向いた。
「……裏切り者が」
声には、まだ怒りの棘が残っていた。
見下ろす瞳は昏く、感情を押し殺そうとしているのが分かった。
「――お前の身体は、俺のものだ。忘れたとは言わせない」
支配を確認するような言葉だった。
寝台の上へ、引き倒される。すぐに、彼が圧し掛かってきた。
あっという間に、衣服を暴かれる。
露わとなった肌へ、躊躇いもなく噛みついてくる。
「い……ッ」
首筋に走った鋭い痛みに、思わず声を上げそうになった。
シーツを握り締めて、痛みに耐える。
これは罰だ。僕が受けるべき、当然の罰。
抗うことなど、許されない。
鎖骨、胸元、腰骨の辺りへと順に落ちてくる口づけは、いずれも飢えた獣のように牙を立ててきた。
この身を掻き抱くその手の爪が、容赦なく肌に食い込んでくる。
僕はそのすべての痛みに意識を向けて、拒むことなく受け入れた。
気づけば、視界が歪んでいた。
眦から落ちた雫が肌を伝い、そこでようやくそれが涙だと気がついた。
痛い。
痛いのは、身体だけではない。
胸の奥に何か重いものがつかえて、息が上手く吸えなかった。
不意に、動きが止まった。
彼の手の力が、触れることを躊躇うように緩んだ。
「……っ」
何かに気づいたような、戸惑いの吐息。
「――フィン」
罰の最中にある声に、いつの間にか違う色が混じっていた。
責めるような響きは消え、代わりに縋るような掠れだけが残った。
僕はただ、溢れる涙を拭うこともせず天蓋を仰いでいた。
彼の眼を見ることが、怖かった。
「痛むのか」
そう問う声は、僕を虐げようとする者のそれではなかった。
「……なぜ、そんな顔をする」
殿下はじっと僕をみつめたまま、動きを止めていた。まるで答えを探すように。
僕は一体、どんな顔をしていたのだろうか。
答えることもできず、ただ嗚咽を漏らすばかりだった。
「……フィン」
彼が再度、僕の名を呼んだ。
以前のような温かさはなく、けれど静かに凪いだ声だった。
「……お前に、殺されると思った」
唐突に落ちた呟きだった。
独り言のような、それでいて、僕に向けられた告白のような。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
あれほど人を寄せつけなかった彼が、僕を信じて眠っていた。
僕は、その信頼を、自分の手で踏みにじった。
「お前が短剣を握っているのを見た瞬間、頭の中が真っ白になった。お前まで俺を殺すのか、と。それなのに――」
語尾が、震えていた。
「それなのに、俺は今、こうして、お前を離せずにいる」
自嘲するような、それでいて泣き出しそうな声だった。
「――ッあ……!」
彼が、身体を貫いてきた。
慣らされることのなかった場所へ、捻じ込むように侵してくるその熱は、燃えるように熱かった。
この身を慮ることのない抽挿が始まる。
いっそこのままこの熱に焼かれ、燃え尽きてしまえたなら。
激しく揺さぶられる視界はなおも歪み、溢れる雫は肌を濡らし続けた。
「行くな」
落ちてきた声音は、ひどく震えていた。
理性の網から零れ落ちたような、剥き出しの一言だった。
「どこにも――行かないでくれ」
その声は、これまでの支配者としての響きを完全に失っていた。
ただ一人の、何かを失うことを恐れる人間の声だった。
「ぅ……っ、ぁ、あ……っ」
僕は、嗚咽とも喘ぎともつかぬ声を上げることしかできなかった。
滲む視界の隅に映る彼を、どうしても見つめ返すことができなかった。
この身に齎される痛みは、いつしか悦びにかたちを変えて、彼を受け入れていた。
この身体はもう、彼を覚えている。
縋りつくように、離れたくないと言うように、浅ましく彼に絡みついて離さない。
そこに理性などありはしなかった。
「ぁ、あっ、あぁ……ッ!」
「――……ッ」
強張った身体の中で、自分のものではない脈動を感じとる。
いつものように彼の身体にしがみつきそうになって、慌ててシーツを握り直した。
やがて、荒い呼吸だけが室内に満ちる。
殿下の額が、僕の肩口に落ちた。動かなくなったその重みに、僕は戸惑う。
「……殿、下?」
返事はなかった。
ただ、規則正しくない呼吸だけが、耳元の肌に触れていた。
僕はその身体に手を回すこともできず、ただぼんやりと、天蓋に描かれた花を数え続けていた。
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