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Episode11 決別ノ涙
傷の手当ては、老いた侍医が黙々と行った。
「随分と派手にやられましたな」と、そう一言呟いただけで、それ以上は何も聞かれなかった。この城では、こういう傷は珍しくもないのだろう。
寝台に力なく身を横たえ、全身に刻まれた傷に軟膏を塗られながら、僕はぼんやりと天井を見上げていた。
痛みは、鈍く遠かった。
翌日から、殿下は僕を避けるようになった。
食事の給仕を他の者に任せ、書庫にも顔を出さない。廊下で行き違えば、目を逸らして通り過ぎていく。
以前なら、それを好都合だと思っただろう。
けれど今は、ただ、息が詰まるように苦しかった。
遠ざかる背中が廊下の角を曲がるまで、僕はずっとその場に佇んでいた。
三日目の夜、僕は自室で一人、あの短剣を取り出した。
鞘から抜けば、月明かりを吸って鈍く光る刃。何度も研いできた、僕の十年そのもの。
――今なら、まだ。
そう思う端から、自分の考えを嘲笑ってしまった。
「今なら」も何もない。
あの夜、あれほどの好機を前にして、僕はこの手を止めた。
理由など、とうに分かっている。分かっていて、認めたくないだけだ。
刃を握り直す。冷たい感触が、掌に馴染む。十年間、ずっとこうして握ってきた。
王城が焼け落ちた夜。母の悲鳴。父の最期の言葉。弟の泣き声。
――思い出せ。お前が何のために生きているのか。
だが、瞼の裏に浮かぶのは、燃える城の炎ではなかった。
拳を寝台の柱に叩きつけた、あの音。
「殺されると思った」と呟いた、あの震える声。
額を僕の肩に預けたまま、動かなくなった、あの重み。
――行くな。どこにも、行かないでくれ。
耳の奥で、まだあの声が聞こえる。
鈍く光る刃を、自分の首元に当ててみる。
ひんやりとした感触の下で、鼓動が脈打っていた。
これで終わりにできたら、どれほど楽だろう。復讐者としての僕も、この矛盾した感情も、すべて。
けれど、その考えすらも、すぐに打ち消された。
――僕が死ねば、あの人はまた一人になる。
その思考が浮かんだ瞬間、自分でも驚くほど、はっきりと悟った。
僕はもう、あの人を殺すことができない。
それだけではない。
死ぬことすら、選べない。
何故なら僕は――あの人が一人でいる姿を、想像しただけで、耐えられなかったから。
「――あ」
声にならない声が漏れた。
気づけば、視界が歪んでいた。堪える間もなく、次から次へと熱い雫が零れ落ちる。
嗚咽が、喉の奥から込み上げた。
声を殺そうとしても、うまくいかなかった。両手で口を覆っても、震える肩は止まらなかった。
刃が、震える手から滑り落ちた。
硬質な音を立てて床に転がる短剣を、眼で追う気にもなれなかった。
十年間、僕を支えてきたものが、音を立てて崩れていく。
祖国のために。家族のために。あの日死んでいった者たちのために。
そう思って、ここまで歩いてきたはずだった。
「――ごめんなさい」
誰に向けた謝罪かも分からないまま、僕はそう呟いていた。
父上。母上。そして、炎の中で泣いていた弟。
あなたたちが命を落としたあの日から、僕はずっと、憎しみだけを道連れに生きてきました。
あなたたちの無念を晴らす、その日だけを待ち望んできました。
それなのに今、僕はその憎しみを、自分の手で手放そうとしています。
あなたたちが愛した祖国は、きっと、こんな僕を望んではいないでしょう。
それでも。どうしても。
僕は彼が、生きていてくれることを願ってしまっています。
「ごめ……なさ……」
許してください、とは言えなかった。
「――う、あ……っ」
嗚咽が、抑えきれない泣き声に変わっていく。
子供のようにしゃくり上げながら、僕は泣き続けた。
これは、何だ。
言葉にすることが、怖かった。名前をつけてしまえば、もう後戻りできなくなる気がした。
けれど涙は、僕よりも先にその答えを知っているようだった。
止めようとしても止まらない。拭っても拭っても、後から後から溢れてくる。
起き上がれ。短剣を拾え。拾って、もう一度誓え。
祖国へ。父へ。母へ。弟へ。
あの日命を落とした、故郷の者たちへ。
けれど。
瞼の裏。その刃よりも先に浮かぶのは、黒い髪が揺れる後ろ姿だった。
もし今、殿下がこの部屋へ入ってきたなら。
僕は床に転がる短剣などへ目もくれず、彼の名を呼んでしまう気がした。
その想像だけで、胸が痛んだ。
もう違う。
十年前の僕なら、こんなことは考えなかった。
涙が、溢れ出して止まらない。
まるで壊れてしまったかのように、次から次へと零れるそれは、指を濡らし、肌を伝い、シーツに染みを広げていった。
「殺せない……殺せないんだ、僕は、もう」
声に出してしまえば、それはもう、覆しようのない事実になった。
刃を拾い上げることも、抜き放つこともできぬまま、僕はいつまでも子供のように泣き続けていた。
誰にも聞かれることのない、その慟哭だけが夜の闇に融けていく。
この夜。
十年間抱き続けてきた憎しみは、涙とともに静かに崩れ落ちた。
シルヴァーン王国最後の王子は、復讐者であることをやめた。
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