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Episode14 彼ノ手ノ温モリ

殿下は、僕を迎えに来てくれた。 扉が開いた瞬間、荒く息を切らした姿が目に入った。 走ってきてくれたのだろう。その姿だけで、胸の奥が締めつけられた。 僕は起き上がろうとして、失敗した。 いつもの慇懃な所作を装おうとした指先は、震えを隠しきれなかった。 「――フィン……!」 すぐ傍まで駆け寄ってきてくれた殿下の顔を、寝台に身を横たえたまま見上げる。 その端正な面立ちが歪んでいるのを見た瞬間、胸が温かいもので満たされていくのを感じた。 自ずと、微笑が浮かぶ。 「殿下……迎えに……来て、くださったのですね」 ここへ来るのはきっと、楽ではなかっただろう。 皇帝は、「あれは来ない」と言った。 もしかすると、待機の命を振り切って駆けつけてくれたのかもしれなかった。 「喋るな。今、医官を――」 踵を返そうとした彼の袖を、咄嗟に握る。 力の入らぬ指先で、懸命にその袖を引いた。 「いて、ください……。ここに、いて」 彼は言葉を失ったまま、僕の手を取った。その手が、僕の冷えきった指先に驚いたように強張るのが分かった。 「寒いのか」 「……少し、だけ」 ひどい悪寒だった。身体の芯から凍えるようで、全身が震えていた。 殿下は自らの上着を脱ぎ、僕の身体にかけてくれた。それでも震えは止まらなかった。 傷の痛みからか、恐怖の余韻か、あるいはその両方か、自分でも分からなかった。 「――すまなかった」 その謝罪に、僕は緩く首を振った。 「殿下の、せいでは……」 「私のせいだ」 語気を強めた殿下の声には、隠しきれない怒りと悲しみが滲んでいた。 手首に残る縄の痕に気づいたのか、彼の表情はよりいっそう悲愴の情を滲ませた。 手を、痛いほどに握られる。震えているのは、僕の手だけではないようだった。 「私が、お前と距離をとったりしなければ。お前を試すような真似をしなければ」 「……殿下」 「お前を、傍に置いておくべきだった。ずっと、離さずにいるべきだったのに――」 「殿下」 僕は、自分でも思っていたより強い声で、その言葉を遮っていた。 「僕は、後悔していません」 「――何を」 「あなたを、殺さなかったことを」 殿下が、息を呑む気配がした。 熱に浮かされながらも、僕は目を逸らさなかった。 伝えたいことが、今はっきりと胸の中にあった。 「僕がこうなったのは、殿下のせいではありません。僕自身が、選んだことです」 その言葉に、噓はなかった。皇帝の私室へ向かう道すがら、僕は覚悟を決めていた。 この身がどれほど傷つこうと、それは殿下が背負うべき罪ではない。 ――いつか、すべて話さなければ。 そう思う自分に、僕は少しだけ驚いていた。 十年間、誰にも明かさなかった真実を、彼にだけは――自分が殺そうとしていた彼にだけは知っていて欲しいと、そう思い始めている自分に。 だが今はまだ、その時ではない気がした。熱に浮かされた頭では、うまく言葉を選べそうになかった。 殿下は、何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わず、ただ僕の手を握る力を強めた。 「……薬を塗ろう」 そう言うと、殿下は小さな陶器の壺を懐から取り出した。かの日にも、傷口に塗ってくれた薬だろうか。 「――痛かったら、言ってくれ」 断りを入れてから、殿下の指が、胸元の傷に触れた。 爪先ほどの量を掬い取り、傷の縁に慎重に沿わせていく。 その手つきは、驚くほど不器用だった。 政務においてはあれほど的確に物事を処理する人が、こと僕の身体に触れる段になると、まるで何かを壊すことを恐れるように、指先が迷う。 「……っ」 「痛むか」 「……いいえ」 嘘だった。傷は熱を持って疼いていたが、僕はそう答えた。 殿下がこれ以上、自分を責める顔をするのを見たくなかった。 殿下は僕の返事を信じたのか、信じていないのか、何も言わずに続けた。 肩から背へ、腰へと、軟膏を塗る指がゆっくりと這っていく。 皇帝に刻まれた真新しい傷と、殿下が刻んだ時間の経った傷が、同じ肌の上で入り混じっていた。 その両方を、同じ指が、同じ丁寧さで撫でていく。 ――不思議だった。 同じ指が、かつては僕を組み伏せ、爪を立て、痛みを刻んだ。それなのに今、その指が、傷を癒そうと必死になっている。 矛盾しているはずなのに、僕はその矛盾こそが、この人という人間の本質なのだと、朧げな熱の中で理解していた。 腰の傷に指が触れた瞬間、僕は微かに身を強張らせた。殿下の手が、はっと止まる。 「――っ、すまない」 「……大丈夫、です」 「大丈夫ではないだろう」 苦しげな声だった。それ以上、何も言えなくなったように、殿下はしばらく手を止めたまま、俯いていた。 「殿下」 僕は、震える声で名を呼んだ。 「続けて、ください」 「――だが」 「これは、殿下がくださった痛みではありません」 熱に浮かされた頭で、それでも僕ははっきりとそう告げた。 「だから、どうか。その手で、癒してください」 殿下は、しばらく僕の顔を見つめていた。何かに耐えるような、そんな表情だった。 やがて、小さく頷くと、再び指を動かし始めた。 先ほどよりも、その指はさらに慎重だった。まるで、僕の身体に刻まれた傷が、自分のものであるかのように。 軟膏の冷たさと、殿下の指の温もりが、傷の上で交互に感じられた。痛みと安らぎが、同じ場所で溶け合っていくようだった。 塗り終えた後も、殿下の手は、しばらく僕の背に置かれたままだった。 「――お前は」 囁くような声がした。 「なぜ私に、そのように優しくできる」 その問いに、僕はすぐには答えられなかった。 そうさせている感情を、今はまだ上手く言葉にできそうもなかった。 「――優しくなんて……ありません」 殿下はそれ以上、追及しなかった。 僕の背に置かれた手に、僅かばかり力が込められたのが分かった。 張りつめていたものが緩やかに解けていく。瞼が急速に重くなる。 心地良くも落ちていく微睡みに、僕は抗うことをしなかった。 背に伝わる温もりだけが、意識の落ちる間際まで僕の心をそっと包み込んでくれた。

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