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Episode16 第一皇子トノ邂逅

あれから、ひと月が過ぎた。 いつしか殿下の部屋で迎える朝も、当たり前の日常になりつつあった。 熱が引いた後も、僕は殿下の傍を離れることを許されなかった。 彼がこれまで以上にこの身に優しく触れてくるたび、まだ真実を打ち明けていない僕は、胸の奥に抱えている石の重さが増していくような心地に捉われていた。 早く打ち明けなければ。 けれど、本当のことを話すことが怖かった。 真実を話せば、殿下はきっと自分を責めるだろう。 呵責に苛まれる彼の顔を、見たくはなかったのだ。 日々の世話をこなす傍ら、僕は宮殿に流れる人の動きを目で追うようになっていた。宮殿では、人の流れそのものが情報だった。 誰が誰と言葉を交わすか。誰の元に、どんな人間が出入りするか。 奴隷という立場は、時に都合が良かった。空気のような存在として、誰も僕の前で言葉を選ばない。 そんな折、廊下を曲がった先で、一人の男が窓辺に立っていた。 まるで、誰かを待っていたかのように。 「――お前が、ヴィルヘルムの新しい付き人か」 穏やかな声だった。 そこに立っていたのは、金髪碧眼の、絵に描いたような美貌の男だった。 第一皇子、ルインハルト様だと、すぐに分かった。 宮廷内で最も高く評価され、最も恐れられている御方だ。 「――お初にお目にかかります」 膝をつこうとした僕を、ルインハルト様は手で制した。 「かしこまらなくていい。少し、話がしたかっただけだ」 その笑みは、驚くほど穏やかだった。作られた温和さには見えない。 けれど何かが、僕の警戒心を静かに刺激していた。 「ヴィルヘルムだが、最近は眠れているか?食事は?」 「殿下は、変わらずご壮健です」 「そうか。元気にしているなら良かった」 ルインハルト様は、心底安堵したような顔をした。 「昔からあれは、不器用な弟でな。能力は誰よりも高いというのに、それを上手く周囲に示すことができない。自分を追い詰める癖があるところも、兄として心配になる」 その声音には嘘の色が見当たらず、本当に弟を案じているように聞こえた。少なくとも、僕の耳には。 浮かぶ笑みはあまりにも自然で、一筋の綻びも見当たらない。 それが、かえって恐ろしかった。 「付き人という立場は、大変だろう。特にヴィルヘルムは、口数が多いわけではないからな」 「いえ。殿下には大変良くしていただいております」 「そうか。お前がいてくれるなら、あれも少しは気が休まるだろう。大事にしてやってくれ」 「――勿体ないお言葉です」 「それと」 去り際、ルインハルト様はふと足を止めた。 「もし、あれの様子で気になることがあれば、私にも一言、知らせてくれると助かる。兄として、力になれることもあるだろうから」 その碧眼は終始穏やかだった。 けれど視線だけは、一瞬たりとも僕から逸れなかった。 僕は表情を変えないよう、細心の注意を払った。 ――これは、監視の申し出だ。 善意の仮面を被った、極めて自然な形の。 「――心得ました」 当たり障りのない返事をする。 向けられる双眸は和やかなようでいて、僕の返答の僅かな間さえ測っているような眼差しだった。 ルインハルト様は満足げに頷き、その場を去っていった。 残された僕は、しばらくその後ろ姿を見つめていた。 殿下は、あの兄君をどう見ているのだろう。優しい兄だと、少しでも信じているのだろうか。 だとしたら、それは危うい。 去っていくルインハルト様の背後、少し離れた回廊の陰に、見慣れない一団の姿があった。 動きに一切の無駄がなく、佩剣の意匠も統一されている。 長らく奴隷の身にあった僕には見慣れないものだったが、以前書庫で目にした古い記録の中に、似た紋章を見た覚えがあった。 ――皇帝直属の、密偵機関。 なぜ、ルインハルト様の周りにあの者たちがいるのか。 その一団は、一度だけこちらを見た。 いや、見たのではない。僕の存在を確認したように見えた。 僕はさりげないふうを装って視線を逸らし、敢えて彼らの傍らを通り過ぎた。 殿下は、まだ気づいていない。 政務と父帝への警戒だけで手一杯な様子の彼に、この些細な、けれど確実な異変を伝えるべきかどうか、僕はまだ決めかねていた。 今はまだ、確証と呼べるほどの材料が揃っていない。 それと同時に、こうした陰の探り合いは、実直な殿下が得手とするものではないだろうとも思う。 ならば、僕が動かなければ。 これが、彼の生きる世界だった。 表面上は穏やかなようでいて、水面下では互いに探り合い、隙あらば蹴落とそうとする世界。 その世界にあるにはあまりにも、彼は真っ直ぐ過ぎるような気がした。 彼が政界で孤立している理由も、大いに納得できるというものだ。 その不器用さは彼の長所に違いないが、生き残るためにはひどく危ういものでもある。 「密偵機関……か」 これは、いずれ盤面を動かす一手になる。 そう考える自分に、僕は少しだけ嫌悪を覚えた。 殿下のためだと言い訳をしながら、結局は策略の道具としてすべてを見ている自分がいる。 それでも、この道を選んだのは僕自身だった。 今更、綺麗な手であろうとする資格などない。 盤上に立った以上、駒であることも、駒を動かすことも厭うつもりはない。 潔白でありたいなどとは、端から思ってはいない。 この手が血で染まろうとも、殿下だけは最後まで光の中を歩かせる。 窓の外に広がる月の無い闇夜を眺めながら、僕は改めてそう誓った。

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