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Episode18 揺ルガヌ意思

夜明け前、殿下の私室に戻ると部屋の主はいなかった。 まだ夜会から戻っていないのだろう。それが、せめてもの救いだった。 この身に残る新しい痕を、今は見られたくなかった。 鏡に映る自分の姿を見つめる。 乱れた髪、赤く腫れた唇、首筋に残る所有の証。 ――これでいい。 これが、僕にできる唯一の戦い方だった。 剣も兵も持たない僕にできることは、ただこの身と、この頭脳を使い切ることだけだった。 殿下がいつか、この夜のことを知ったなら。 どれほど、僕を憎むだろうか。或いは、自分を責めるだろうか。 どれだけ憎まれてもいい。けれど殿下が自分を責めるのはつらい。 それでも。 彼が玉座に至る道の障害だけは、一つでも多く取り除いておかなければ。 鏡の中の僕は、迷いのない眼をしていた。 窓の外が白み始めた頃、扉が静かに開く音がした。 「――フィン?」 殿下の声だった。僕は咄嗟に、乱れた襟元を掻き合わせた。 だが、遅かった。 殿下の視線が、僕の首筋の痕に留まる。その表情が、見る間に凍りついていくのが分かった。 「――どこに、行っていた」 低い声だった。これまで聞いたことのない、抑えきれない何かを孕んだ声音だった。 「殿下」 「答えろ」 詰め寄る足音。その顔に浮かぶのは、怒りだけではなかった。 怒りの奥に、もっと剥き出しの、痛ましいほどの何かが見えた。 「ノルヴィス様の元に、行って参りました」 僕は、隠すことをしなかった。隠したところで、この痕跡がすべてを語っている。 殿下の拳が、固く握られるのが見えた。 「――なぜだ」 「僕の望みを叶えるためには、今動く必要がありましたので」 「お前の望み?」 殿下の声が、初めて大きく揺れた。 「そのために……あの男に、こんな――」 言葉が、途中で途切れた。まるで、その先を口にすること自体が、耐えがたいことであるかのように。 「殿下。これは、僕が選んだことです」 殿下は、僕の肩を強く掴んだ。指先が食い込むほどの強さだった。 「お前は、私に何も告げず、あの男の元へ――」 「告げれば、殿下は止めたでしょう」 「当然だ!なぜ、止められると分かっていて――」 「止められては、困るからです」 僕は、真っ直ぐに殿下を見上げた。 「僕は、僕の望みを叶えるために動くと決めました。その手段について、殿下に許しを請うつもりはありません」 殿下は、言葉を失ったように立ち尽くしていた。怒りと、困惑と、そして言いようのない痛みのようなものが、その黒い瞳の奥で渦を巻いているのが見えた。 「――なぜだ」 やがて、絞り出すような声で、殿下は問うた。 「なぜ、そこまでする。そうまでして叶えたい望みとはなんだ」 僕は、真っ直ぐに殿下の眼を見上げていった。 「――殿下が、玉座に至ること」 その答えに、殿下は息を呑んだ。 「それが、僕の望みです」 返事はなかった。 殿下はただ、僕を見つめていた。 まるで今、目の前にいる人間が、自分の知らない人間になってしまったとでも言うように。 黒い瞳が、信じられないものを見るように揺れている。 「――お前は、何を言って……」 殿下の手が、震えていた。 肩を掴む力は、痛みを与えるためのものではなく、まるで何かに縋りつくような、そんな握り方に変わっていた。 「……違う」 掠れた声だった。 「違う……私は、そんなことを望んでいない。いつ誰がお前に、そんなものを望んだ――私を、玉座になどと……」 呟くような声だった。 「……私が、お前をそこまで追い詰めたのか」 「違います」 僕は、はっきりと否定した。 「これは、僕自身の意志です。誰に強いられたものでもありません」 だが、殿下の顔から、その負い目の色が消えることはなかった。 むしろ、深く、静かに、その色は殿下の中に沈殿していくようだった。 殿下は一歩、後ろへ下がった。 僕から離れるように。 いや。 離れなければ、自分が壊れてしまうとでもいうように。 「……やめろ」 声が震えていた。 「これ以上、私のために自分を傷つけるな」 殿下の震える手が、躊躇うように僕へと伸ばされる。 自分が触れることで、僕が傷ついてしまうのではないかと、それを恐れるような繊細な指だった。 その指先が、首筋へと伸びる。 赤く残る痕へ触れようとして――止まる。 震えながら宙を彷徨った指は、最後まで首筋の痕に触れることはなかった。 「――もう、二度と」 殿下は、僕を強く抱き寄せた。 触れることを躊躇っていた手とは一転して、この身が軋むほどの、強い力だった。 「二度と、私の知らぬところで、そんな真似はするな」 「約束は、できません」 「フィン……!」 「でも」 僕は、殿下の背にそっと手を回した。 「殿下の知らないところでも……僕は常に、殿下のために動きます。それだけは、覚えてておいてください」 殿下は、何も言わなかった。 ただ、僕を抱きしめる腕に、より一層の力を込めただけだった。 殿下の腕は震えていた。 その震えが何を意味するのか、僕には分かってしまった。 この人はきっと、これから先も、自分のために僕が傷ついたことを忘れない。 僕は今、殿下の心に鎖を掛けてしまった。 永劫に、切れることのない鎖を。 罪悪感はなかった。 あるのは、切なさだけだった。 この人を縛りたいわけではない。 それでも僕は、この人のためなら、何度でも同じ選択をするだろう。 この人が僕から離れられなくなっていく様を切なく思う一方で、その腕に宿る必死さは、僕の心の昏い部分を静かに満たしていた。 愛されたいわけではない。 ただ、この人の世界から、僕という存在だけは消えなくなる。 その事実が、胸の奥の醜い何かを、どうしようもなく甘やかしていた。

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