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Episode19 月夜ノ告白
殿下の腕の中で、僕はその温もりにしばらく身を委ねていた。
抱き締める腕の震えが、少しずつ収まっていく。それでも、離れようとはしなかった。
まるで、離せば僕が消えてしまうとでもいうように。
――今なら。
不意に、そう思った。
皇帝はもう、僕の正体に気づいている。気づいているというより、すべてを知っていて僕を拾ったのだろう。
あの日、私室で告げられた言葉の数々が、脳裏に蘇る。
「お前の父王も」「あれの初陣を飾ったのだ」——あの男は、すべてを知った上で、殿下にだけそれを隠している。
いつか、殿下が皇帝の口から真実を突きつけられる日が来るとしたら。
その時、僕はどんな顔で、この人の前に立てばいいのか。
「殿下」
僕は、静かに口を開いた。
「――お話ししなければならないことが、あります」
少しだけ、腕の力が緩んだ。
「今か。今でなくても――」
「今、お話しします」
僕は、殿下の腕からそっと身を離した。
真っ直ぐに向き合わなければ、この話はできない。そう思った。
「僕の、本当の名を、聞いていただけますか」
殿下の瞳が、微かに揺れた。
「フィン、では、ないのか」
「フィンは、本当の名の一部です。それがすべてではありません」
僕は、深く息を吸った。
十年間、誰にも明かさなかった名を、今、この人にだけ渡す。
「僕の本当の名は、フィンバール=ノイ=シルヴァーン」
その名を口にした瞬間、殿下の顔から、みるみる血の気が引いていくのが分かった。
「シルヴァーン……」
「はい」
「――まさか」
殿下の声が、ひどく掠れた。
「十年前、殿下が初めて指揮を執られた戦で、滅ぼされた国の名です」
沈黙が落ちた。長い、重い沈黙だった。
殿下は、茫然とした様子で僕を見つめていた。
「僕は、あの国の王子でした。王妃だった母に逃され、以来十年、奴隷として生き延びてきました」
「……嘘だ」
殿下は信じられないものを見る眼で僕を見た。
まるで幽霊でも見たかのような反応だった。
「そんなはずはない」
何かに殴られたように、よろめく。
「お前が……?あの国の……王子、だと……?」
殿下は、僕の国の名を忘れていなかった。
十年前、滅ぼした一つの小国の名を。
それだけで十分だった。
あの戦を武勲としてではなく、消えない傷として抱え続けてきたのだと分かったから。
僕は、心の底から安堵した。
やはり、この人は皇帝となるべく人だと、改めてそう思った。
「――なぜ、それを、今」
「皇帝陛下は、既にご存知です」
その一言に、殿下は大きく目を見開いた。
「――父上が」
「僕を殿下に下賜されたのも、僕の正体を把握した上でのことだと思われます。あの方は、あなたが僕を気に入ってくださった頃合いを見計らって、僕を召し上げました。その際、僕の父——シルヴァーン国王のことも、仄めかされました」
殿下の拳が、震えながら固く握られていく。
「父上は、それを知っていて……」
「はい」
「――なぜ、お前は」
殿下の声が、初めて崩れた。
「なぜ、今まで黙っていた。なぜ、私を殺さなかった。お前には、その権利があったはずだ。それなのに、なぜ――」
「殺さなかったのではありません」
僕は、はっきりと言った。
「殺せなかったのです」
殿下は、言葉を失ったように立ち尽くしていた。
何かを言おうとして、それでも声にならず、唇だけが震えていた。
漆黒の瞳が大きく揺れる。
呼吸だけが浅く速くなる。
「最初は、殺すつもりでした。この手で、殿下の喉を裂くつもりでした。あの夜、枕元に立ったことを、覚えていらっしゃいますか」
「――覚えている」
「あの夜、僕はできませんでした。理由は、もうお分かりのはずです」
低い雲に隠されていた月が、顔を覗かせた。
闇しかなかった夜空に、いつしか星々の姿も見えている。
月明かりが、彼の漆黒の双眸を掠める。
闇を湛えたままの瞳の奥で、月光の銀だけが、ひと際強く煌めいた。
堪えきれないものが、溢れ出しそうになっている。
「僕は、殿下を見てきました。誰よりも近くで。父帝の恐怖政治を憎みながら、それでも自分の中に流れる血に怯え、それでも人を救おうとするその姿を」
僕は、殿下の手を取った。震えるその手を、両手で包み込むように。
「僕はもう、復讐者ではありません」
あの夜。
「今の僕の望みは、ただ一つです」
泣きながら、短剣を手放したあの瞬間から。
「殿下を、皇帝にすること」
殿下は、溢れんばかりの涙をその眼に湛えて、首を振った。
「……やめろ。そんなことを、言うな。私には、その資格などない」
「殿下」
「私には……お前から、その未来まで奪う資格など……」
「僕は復讐を捨てました。ですが、それは仇を許したという意味ではありません」
僕は、真っ直ぐに殿下の眼を見据えた。
彼もまた、真正面から僕の眼を見つめ返していた。
「貴方が皇帝にならないのであれば――僕は刺し違えてでも、祖国の仇である皇帝を討ちます」
その言葉に、殿下の瞳から、ついに涙が零れ落ちた。
声も出さずに、ただ静かに。
「僕は、僕の祖国を滅ぼしたあなたを、憎むべきなのでしょう。それが、正しい道なのかもしれません」
「――フィン」
「けれど、僕はもう、その道を選びません。あなたが立て直すこの国であれば、滅ぼす必要などない。むしろ、僕はこの手のすべてを、あなたに捧げたい」
殿下は崩れ落ちるように、僕の肩に額を預けた。
「――すまない」
一度だけ呟き、すぐに首を振る。
「違う。――そんな言葉では、済まされない……フィン、私は、お前にどう償えば……」
その声は、これまで聞いたどんな謝罪よりも、深く、重かった。
「私が……お前の国を。お前の家族を……っ」
「殿下のせいでは、ありません」
「――だが、お前からすべてを奪ったのは私だ」
「あの戦は、父帝陛下の命によるものです。殿下は、その駒に過ぎなかった。……それでも」
僕は、殿下の背にそっと手を回した。
「それでも、殿下を憎めなかったのは、僕の弱さかもしれません」
肌を掠める髪に、そっと頬を寄せる。
殿下の漆黒の髪は、思っていたよりもずっと柔らかかった。
「でも、後悔はしません。これが、僕の選んだ新しいこの命の使い方です」
殿下は、しばらくの間、何も言わなかった。
ただ、僕を強く抱き締めたまま、肩を震わせていた。
東の空が、静かに白み始める。
十年前、祖国を失った夜が終わる。
今日からは、自分で選んだ朝だった。
その朝は、もう一人ではなかった。
第二章 了
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