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Episode21 奪ワセヌ誓イ

北部三州への減税策が実施されて数ヶ月、その成果が数字として現れ始めていた。 年貢の滞納は減り、飢えを訴える陳情も目に見えて少なくなった。 文官たちの間でも、私の施策への評価が静かに高まりつつあった。 だが、それを面白く思わない者もいた。 「――ヴィルヘルム。お前、随分と評判が良いそうだな」 宮廷の廊下で呼び止められ、振り返ると第二皇子のノルヴィス兄上がいた。その顔には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。 「北部の民が、お前を『慈悲深き皇子』と持て囃していると聞いた。私財まで投げ売ってのことだそうだが」 「民が飢えずに済んだのなら、それで十分です」 「綺麗事を」 兄上は、鼻で笑った。 「そうやって民の人気を集めて、次は何を企んでいる。皇位継承権を、私から奪うつもりか」 「そのようなつもりは」 「白々しい」 その声には、隠しようのない敵意があった。 「側室の子というだけでも目障りだった。それが最近は、どこへ行ってもお前の名ばかり聞く。……耳障りで仕方がない」 父と同じ色をした眼が、射抜くように私を見た。 「民は愚かだ。少し税を軽くしてやっただけで救世主扱いとは。――側室の子であるお前が、この私を差し置いて皇位に近づくなど、あってはならないことだ、ヴィルヘルム」 黒髪黒眼という、この血筋そのものを蔑む視線。それは、これまでも幾度となく向けられてきたものだった。 今更、傷つくようなことではない。だが、その先に続いた言葉は、看過できるものではなかった。 「私は貴族院に話をつけておいた。お前の減税策は、財政を圧迫する危険な博打だとな。北部の民などのために、他州の税を上げる真似は許されん、とね」 「――何を」 「もう根回しは済んでいる。次の議会で、お前の政策は差し戻しになるだろう」 兄上は、勝ち誇ったように笑った。 「民を想う政治、結構なことだ。だが、それで得た評判もろとも潰させてもらう」 その言葉に、私は言いようのない怒りを覚えた。 数ヶ月かけて積み上げてきたものを、私への嫉妬というこれ以上とないくだらぬ理由で潰そうとしてくるなどと。 昔から兄上は、数字しか見ようとしない。父帝と同じだ。 飢えを凌いだ老人の顔も、子にパンを握らせ泣きながら礼を述べる母親の声も、一度たりとも見たことがなければ、想像したことすらないのだろう。 飢えずに済んだ北部の民たちの顔が、脳裏を過る。 私のためなどではない。彼らのために、この政策を潰させるわけにはいかなかった。 「――兄上には、関係のないことでは」 「関係ある。お前が民の心をこれ以上掴めば、私の立場が危うくなる。そんなことは許さない」 言い捨てた後、兄上はふと、思い出したように口の端を上げた。 「ああ、そうだ。もう一つ、お前に伝えておくことがあった」 「――何でしょう」 「お前の奴隷のことだ」 その一言に、私の中で何かが冷たく強張った。 「あれは、私が引き受けよう」 「――は?」 「私はあれが気に入った。私の傍に飾った方が、あれも映える。あれはただ美しいだけではない。三手先まで読んで話す。ああいう人間は、玉座の横に置くべきだ。噂に聞く能力も、なかなか使い出があるようだしな。父上にも、そう頼むつもりだ」 兄上は、悪びれもせずそう言い放った。 「お前一人が良い思いをするのは不公平というものだろう。もっとも、あれの真の価値を見抜いているのは、この私くらいのものだろうが」 「――冗談はやめてください」 「冗談などではない」 兄上の目に、粘つくような執着の色が浮かんだ。 「私は、欲しいと思ったものは、必ず手に入れる。お前の政策も、お前の奴隷も、いずれこの手に収まる。せいぜい、それまで大事にしておくがいい」 言うだけ言うと、兄上は満足げに去っていった。 その背を睨みながら、私は拳を、これまでにないほど強く握りしめていた。 政策を潰されることには、まだ耐えられる。名声や地位なども惜しくはない。 だが、フィンだけは違う。 彼にまで手を伸ばそうとするその意地汚さが、私の中で燻ぶっていた炎に油を注いだ。 掌に食い込んだ爪の痛みに、自らの手に視線を落とす。 自分がこれほどまでに何かを求めたのは、初めてのことだった。 皇位でもなければ、権力でもない。 ただ一人――フィンだけは。 たとえ兄であろうと、父帝であろうと、彼をくれてやる気は毛頭ない。 欲しいと思ったものは必ず手に入れる、と、そう言った兄の言葉が脳裏に渦巻いていた。 忌まわしき父帝の血が兄にも、そしてこの身体の中にも確かに流れているということを、思い知らされた気がした。 ――渡さない。 小さく燃え上がった炎は、やがて地を這うように低く燃え広がっていった。 ※ 執務室に戻ると、そこにはいつもと変わらぬ静けさが流れていた。 任せた翻訳業務のためにペンを走らせていたフィンが、その手を止めて顔を上げる。 ペンを置く音だけが、小さく響いた。 私の顔色から何かを察したのか、僅かに眉を寄せる。 「――何か、ございましたか」 「ノルヴィス兄上が、私の減税策を潰そうとしている。それと」 私は、一瞬、言葉を選んだ。 「お前のことも、欲しいと言っていた。父上に、直談判するつもりらしい」 フィンの表情が、僅かに動いた。だがそれは、驚きでも恐れでもなく、もっと静かな、何かを見定めようとするかの気配だった。 「――そうですか」 フィンは短く、そう答えた。その返答は、あまりにも静かだった。 だが私は知っている。 フィンが静かな時ほど、何かを考えていることを。 その瞳の奥に宿った冷たい光を、私は見逃さなかった。 「フィン」 「はい」 「お前は、私のものだ。誰にも渡さない」 気付けば、口が動いていた。理性が考えるよりも先に。 自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。 独占欲だと、自分でも分かっていた。それでも、口にせずにはいられなかった。 フィンは、僅かに目を見開いた後、静かに微笑んだ。 「――ありがとうございます。私は、何処へも参りません」 その答えに、私は少しだけ、胸のつかえが下りた気がした。 だが同時に、フィンの笑顔の裏に底知れぬ陰が潜んでいることも、私は肌で感じ取っていた。 彼の笑顔はいつも、私に安心を与えたあとで、私の知らない未来を見つめている。 その視線の先だけは、どうしても、私には届かなかった。

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