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Episode22 盤上ノ伴
ノルヴィス兄上が謀反の疑いで捕らえられた、という報せが届いたのは、それから数日後のことだった。
執務室に駆け込んできた側近の報告に、私は一瞬、耳を疑った。
「――謀反、だと?」
「はい。密偵機関に不審な接触を試みたとして、陛下の逆鱗に触れたとのことです」
密偵機関、という言葉に、私はフィンへと視線を向けた。
フィンは、いつもと変わらぬ静かな表情で、茶器を片付けていた。だが、その所作の裏に何かがあることは、疑いようもなかった。
「詳しい経緯は」
「それが……ノルヴィス様は、第一皇子殿下が密偵機関に手を伸ばしているとの情報を掴み、単独でその真偽を確かめようとされたようです。ですが、その動き自体が、密偵機関を通じて陛下の耳に入ってしまい」
側近の声が、僅かに震えていた。
「陛下は、ノルヴィス様が皇位継承権を狙い、勝手に諜報機関へ探りを入れたと断じられ――」
「――結果は」
「皇位継承権の剥奪。それと、北方の離宮への幽閉が言い渡されました」
粛清ではない。だが、二度と表舞台には戻れない末路だ。
あれだけ自らの地位に固執していた兄上が、皇位継承権を持たぬ者として、日の当たらぬ離宮で一生を過ごすことになることを思うと、私の胸には複雑な感情が渦巻いた。
側近が退出した後、私はしばらくの間、その報せの重みを噛みしめていた。
数日前、あれほど勝ち誇った顔で私の政策を、そしてフィンを奪うと言い放った兄上の顔が、脳裏に浮かぶ。
――自業自得だ。
そう思う一方で、拭いきれない澱みが胸の奥に残った。
私は、茶器を片付けているフィンに向き直った。
「――お前が、仕組んだのか」
陶器の擦れる冷たい音が、静かな室内に落ちる。
「殿下に、お伝えした通りです。私は、私の望みのために動きました」
「ノルヴィス兄上に、密偵機関の話を吹き込んだのは、お前だな」
「はい」
フィンは隠すつもりなどないようで、あっさりと肯定した。
「あの兄上が、単独で動くように仕向けたのも」
「ノルヴィス様は、単純な御方です。功を焦れば、必ず無謀な行動に出ると分かっていました」
私は、しばらく言葉を失っていた。
ノルヴィス兄上は、確かに浅慮なところがあり、時に見苦しいほどの野心を隠さない人だった。だが、それでも血を分けた兄であることに変わりはない。
その人生を、目の前のこの男は、あまりにも容易く潰してみせた。
まるで不要となった駒を、盤上から払い落とすかのように。
「――良心は、痛まないのか」
「痛みません」
フィンは、真っ直ぐに私を見た。
「ノルヴィス様は、確かに殿下の脅威にはなり得ない方でした。ですが凡庸であるがゆえに、利用されやすい駒にもなり得ます。そして何より、殿下の政策を私財ごと踏みにじろうとし、あまつさえ、私にも手を伸ばそうとされました。殿下の道を阻む者は、一人たりとも残しておくつもりはありません」
その言葉には、一分の隙もなかった。
理路整然とした温度のないその言葉に、背筋を冷たいものが這う。
だがそれでも、彼の見据えるその先を、共に見たいと願ってしまう自分がいた。
「殿下は、良心が痛むのですか?」
「私、は――……」
「もし痛むのでしたら、殿下は優し過ぎます。それは覇王の歩む道に於いては、弱みにしか成り得ません」
フィンの眼は、どこまでも真っ直ぐに私を見据えていた。
少なからず自覚していた自らの弱さを真正面から突かれ、私は何も言い返すことができなかった。
皇帝となるには、甘いことばかり言ってはいられぬことは私とて分かっていた。必要なものと不要なものを取捨選択する能力は、帝王には不可欠なものだろう。
不要なものを切り捨てる。ときに求められるその非道さが、私には足りていないということを、理解していないわけではなかった。
唇を引き結んで物言わぬ私に、フィンは小さく息を吐くと、ほんの僅かにその表情を緩めて見せた。
「ですがその優しさは、殿下の長所でもあります。あなたは、そのままでいてください」
フィンの微笑に、心の奥が軋んだ。すべて自分に任せておけ、と、そう訴えてくるようで。
フィンはきっと、私の代わりに泥を被ろうとする。汚れきれない私に代わって、その手を穢すことを厭わない。
向けられるのは、そんな覚悟を称える眼差しだった。
「私は、あなたを導くための駒でありたい」
「駒、などと」
「私は今、盤上に立っています。あなたこそが、盤そのものなのです」
フィンは一歩距離を詰め、曇りのない眼差しで私を見上げてきた。
その澄んだ瞳は晴れ渡る青空を彷彿とさせ、その先にあるものの果てのなさを物語っているようだった。
「この身のすべてを捧げます。誰よりも有能な駒だと、そう殿下に言っていただけるように」
その答えに、私は言葉を失った。
盤上の駒ではなく、盤そのもの。
ならば私が崩れれば、フィンの計画自体が頓挫するということだ。
「なぜ、そこまで。私を皇帝にして、お前が得られるものとは何だ。祖国の復興か?」
フィンは私の問いに答えることなく、ただ静かにその場に佇んでいた。
刹那ばかり、遠いものを見るように細められた目が、次にはゆっくりと瞬いた。
微かに湛えられた微笑の意味を、私にはまだ、すべて理解することはできなかった。
だが一つだけ、確かなことがあった。
この男の隣にいる限り、私はもう、後戻りのできない場所に立ち続けなければならないということだ。
「――フィン」
フィンは双眸を細めたまま、口角を上げた。
底知れぬ笑みが、そこにはあった。けれどその笑みは、どこか痛々しくもある。
私は、そっと彼の手を取った。
「……駒ではない」
フィンが、僅かに目を見開く。
誰かに使われるためだけに生きてきた人間に、これ以上、そんな役割を背負わせたくはなかった。
「お前は、私の隣に立つ者だ。泥を被るのも、血に染まるのも、お前一人にさせるものか」
フィンは何も答えない。
けれどその青い瞳が、凪いだ水面に立つ波紋のように静かに揺れた。
彼の手を、確かな力で握り締める。
初めて出会ったときは哀れむほどに荒れていた手は、今では本来の滑らかさを取り戻しつつあった。
この手を、道具として握るつもりはない。
「共に歩もう。二人で共に」
私は彼の手を離さなかった。
握った手は、驚くほど温かかった。
かつて復讐だけを抱えて生きてきた王子の手。
そして、誰一人信じることなく生きてきた皇子の手。
その二つは今、静かに重なっている。
互いを縛る鎖ではなく、未来へ進むための、最初の契りとして。
フィンの淡いコバルトが、穏やかに揺れていた。
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