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Episode23 訣別ノ杯

謁見の後、父上は珍しく私を呼び止めた。 「ヴィルヘルム、来い。ノルヴィスが消えたせいで、酒が少々味気なくてな」 断れるはずもなく、私は父上の後に続いた。 案内された部屋には、酒が用意されていた。父上は手ずから杯に酒を注ぎ、寛いだ様子で長椅子に腰を下ろす。 私は座る気にもなれず、少し離れた場所で立ったまま父上を見据えた。 「ノルヴィスの件をどう思う」 「――兄上の自業自得です」 「ほう、お前の口からそんな言葉が出るとは。だが、惜しいとも思わんか」 父上は、酒を一口含んで笑った。 「あれは、良い駒だった。少々短慮なところはあったが、それも味のうちだ。息子というものは、駒として揃っていればいるほど、盤上が面白くなる」 一人減ると盤も静かになるな、と、そう呟かれた言葉に私は内心で強い嫌悪を覚えた。 だが、顔には出さなかった。この場で感情を露わにすることの無意味さを、私は理解していたからだ。 「お前は分かっているか、ヴィルヘルム。この帝国というものが、何のためにあるのか」 「――民のため、では」 「甘いな」 父上は、笑いながら首を振った。 「民など、駒にすらならん。この帝国が盤であれば、民は盤を成す材料だ。育てるための肥料と言ってもいい」 父上は酒の入ったグラスを軽く掲げてみせた。 磨かれたグラスは曇りのひとつすらなく、父の氷のような瞳を映し出していた。 「属国も、戦も、すべては私を楽しませるための舞台装置だ。戦を起こし、領土を広げる。それの何が悦ばしいか分かるか?勝敗そのものではない。誰がどう動き、誰が裏切り、誰が死に、誰が這い上がるか――その過程のすべてが、退屈を紛らわせてくれる」 私は、言葉を失っていた。 噂には聞いていた。だが、ここまで明確に、本人の口から語られるのは初めてだった。 「そしてお前たち息子は、その舞台の中で最も面白い駒だ。互いに疑い合い、蹴落とし合い、時に情に絆されて足を掬われる。ノルヴィスは勝ち上がる駒ではないと思っていたが、思っていた以上に早く壊れてしまった。それが惜しい」 壊れてしまった、という言葉に、私の拳は知らず知らず固く握られていた。 掌に食い込む爪の痛みが、叫び出しそうになる感情を抑えてくれた。 「――父上にとって、息子が壊れることも、娯楽の一つですか」 「無論だ」 即答だった。 「この私が、帝国を継がせるために子を作ったと思うか?――違うな。盤に駒が足りぬと遊びにならんからだ。私を愉しませる。そのためにお前たちを作った。この帝国を継がせるためなどではない。この国そのものが、私を愉しませる舞台なのだ」 父上の冷え切った双眸が、私を射る。 彼が私に向ける眼はいつも、まるで無機質なものを見るかのようなものだった。 そこには期待も、侮蔑もない。 その理由に凡そ気づいてはいたが、改めて言葉にされると鋭利なもので胸を抉られる心地がした。 「ところでヴィルヘルム、お前にくれてやったあの奴隷は、随分と使い心地が良いようだな」 その話題の転換に、私は身構えた。 「――何のことでしょう」 「隠さずともよい。お前があれに執着していることくらい、とうに分かっている」 父上は、愉しげに目を細めた。 「あれは、良い拾い物だったろう。人を悦ばせることに長けている。あれの父親と、よく似ている」 ――あれの父親。 その一言に、私の背筋が凍った。 父上は今、明確に、フィンの出自を知っていることを口にした。 「父親、とは」 「さあ、な」 父上は、はぐらかすように笑った。だが、その目には、すべてを知った上での愉悦が滲んでいた。 「あの美しい面と、人を惹きつける才は、血によるものだろう。どこまでも気高くあろうとする、忌まわしい血だ。あれの父も、美しかった。折れることをしなかった。だから愉しかった。――最期まで、な」 その言葉が意味するところを、私は正確に理解した。 父上は、フィンの正体を知っている。それだけではない。 フィンの父親のことも、ただ敗戦国の王という立場以上のものとして知っているようだった。 「父上は……フィンに、何をなさったのですか」 「何、とは」 「フィンを……召し上げられた夜のことです」 言葉にするのも忌々しい。 表情を険しくした私の前で、父上は笑みを深めた。 「何、少しばかり昔話を愉しんだだけだ。あれは屈することを知らん。躾けるには、少々骨が折れるぞ。お前にそれができるかどうか……気を許せば、知らぬうちに喉元に喰らいついておるかもしれん」 「――そのような、ことは」 「あの血は魔性よ。人を狂わせる。狂わされると分かっていても、誰しも最後は欲しくなる。そして――手に入れた者から、壊れていく」 父の眼が、一瞬ばかり遠くを見た。 私は思うよりも早く、問うていた。 「父上は、狂わされたと?」 父は答えなかった。 ただ、グラスの中の酒が静かに揺らぐさまを見ていた。 そうして再び私を射抜いた眼は、隠しきれぬ苛立ちを湛えていた。 だがその眸の奥に、刹那ではあったが哀愁にも似た色が過った気がした。 「……お前と昔話をする気はない」 父上は、残る酒を煽って飲み干し、立ち上がった。 荒々しくテーブルに置かれたグラスの音が、その話題にピリオドを打つ。 「夢中になり過ぎて、壊さぬようにな。壊れた駒ほど、つまらんものはない」 去り際、父上は一度だけ振り返った。 「――足元を掬われるなよ、ヴィルヘルム。ノルヴィスのようになりたくなければ、な」 それだけ言い残し、父上は部屋を出ていった。 まるで、すべてを知っているとでも言いたげな眼だった。 物心ついた頃よりその眼を見て育ってきた私は、あの眼から逃れようなどと思ったことはなかった。逃れることなどできはしないと、そう思い込まされてきた。 今、それが変わった。 一人残された私は、自ずと拳を握り締めていた。 胸の内で渦巻くのは怒りばかりではなく、悲哀と、焦燥と。 「――父上……」 これまでも、父のことを殺したいと思うことはあった。 だがそれは怒りの中で生まれた形にならぬ感情の断片に過ぎなかった。 だが今は、ひどく冷静な思考が囁いている。 ――この男を、生かしておいてはならない。 その思いが、初めて明瞭な輪郭を持った。 民のため、フィンのため、そして私自身のため。 この帝国から、この狂気を、終わらせなければならない。 その方法が、どれほど血に塗れたものであろうとも。 狂王の血が流れる半身を切り離したい衝動に駆られながら、私はその事実を重く受け止めていた。

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