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Episode24 澱ム残リ香
ノルヴィス兄上の一件から数日後、ルインハルト兄上が私の執務室を訪れた。
「――ヴィルヘルム。少し、良いか」
断る理由もなく、私は執務の手を止めた。
フィンが、静かに茶を淹れ直す。
兄上の視線が一瞬フィンへと流れたのを、私は見逃さなかった。
「此度は大変だったな。北部三州の件も、ノルヴィスの件も」
「……兄上」
「政とは、民だけを見れば済むものではない。兄弟同士の争いまで背負わねばならぬ。皇子とは難儀なものだ」
長椅子に腰を下ろすなり、兄上はそう切り出した。その声には、確かな労わりの色が滲んでいた。
「ノルヴィスのことは、私も驚いている。まさか、あれほど短慮な真似をするとは」
「――兄上には、御見苦しいところをお見せしました」
「いや、お前が謝ることではない。あれは、あれ自身の招いたことだ」
兄上は、穏やかに笑った。その笑みには、一分の綻びも見えない。
「あれも可哀想ではあるが。お前にとっては、これでその身を脅かす者が一人減ったとも言える。少しは安心して政務に励めるだろう」
その言葉に、私は僅かな違和感を覚えた。
まるで、この結末を歓迎しているかのような口ぶりだった。
「兄上は、この件をどうお考えですか」
「どう、とは」
「ノルヴィス兄上が、密偵機関に接触しようとした、という経緯についてです」
一瞬、兄上の笑みが微かに揺れた気がした。だがそれはあまりにも一瞬のことで、確信は持てなかった。
「愚かなことをしたものだ、としか。密偵機関などという、扱いを間違えれば身を焼く火種に、無闇に近づくべきではなかった」
その言い回しに、私はまた、小さな引っかかりを覚えた。まるで、密偵機関がどれほど危険なものかを、よく知っているような口ぶりだった。
「――兄上は、密偵機関と、何か関わりが」
「私が?まさか」
兄上は、驚いたように笑った。何ら綻びのない、自然で、完璧な笑顔。
そのはずであるのに、何故今日はこんなにも、言いようのない違和が胸の裡に込み上げるのだろうか。
「私は、そのような陰の道具とは縁がない。お前も知っての通り、私は表の政において力を尽くすことしか能がない男だ」
そう言って、兄上は茶器に手を伸ばした。フィンが淹れた茶を、静かに口にする。
「――良い茶だ。お前の付き人は、驚くほど有能だな」
「畏れ入ります」
フィンが、静かに頭を垂れた。
「渋みが先に立つ。だが最後に甘みが残る」
そう呟いた兄上の表情に、微笑が乗る。
「人も同じだ。最初の印象だけでは本質は見えない。真価というものは、最後まで見届けねば分からない」
兄上の視線が、再びフィンへと向けられた。
フィンも静かに視線を返す。
二人の間に言葉はなく、奇妙な沈黙が場を支配した。
私にはまるで、二人が互いの腹の内を探り合っているようにも見えた。
「ヴィルヘルム。一つ、忠告しておこう」
「――何でしょうか」
「駒は、大事にするものだ。だが大切にし過ぎれば、それは弱みになる。盤より駒を優先した瞬間、その勝負は負けだ」
――駒。勝負。
完璧な笑顔、穏やかな口調で、兄上は言ってのける。
その言葉に、父帝の姿が過った。
父とは似ても似つかぬと思っていた兄に、父の姿が重なって見えた。
「ノルヴィスは、欲に目が眩んで身を滅ぼした。だがお前は、また別の形で足を掬われかねない。分かっているな?」
その声は、静かに諭すようだった。だが、その奥に潜む何かが、私の背筋を微かに冷やした。
「――お心遣い、感謝します」
当たり障りのない返事をすると、兄上は満足げに頷いた。
「お前は、優秀な弟だ。父上も、お前の才を高く買っておられる。だからこそ、心配なのだよ。不器用なお前が、要らぬところで足を滑らせないようにとな」
それだけ言うと、兄上は席を立った。
父と同じ色をした瞳が、じっと私を見据えてくる。
「かと言って、私も父上ほど器用ではないのだが。お前とは、仲睦まじくやっていきたいと願っているよ、ヴィルヘルム。――この帝国のためにもね」
そう言って、兄上は部屋を出ていった。
扉が閉まった後、私はしばらく、その余韻に囚われていた。
――兄上は、何かを知っている。
密偵機関について。あるいは、フィンについて。あるいは、その両方について。
確証はない。
だがあの完璧すぎる笑みの裏に、私にはまだ見えていない何かが、確かに潜んでいる。
「殿下」
フィンの声に、私は我に返った。
だがフィンそれ以上何も言わず、静かに兄上が去った扉を見つめていた。
沈黙は、ときにどんな言葉よりも雄弁にものを語る。
その眼差しが意味するものを、私は理解していた。
私は改めて、兄上が残していった茶器へ視線を落とした。
茶は、すでに冷めている。
けれど室内には、兄上が残していった香だけが、いつまでも澱のように漂っていた。
その甘い残り香は、この身に流れるものと同じ匂いのように思えてならなかった。
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