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Episode25 菩提樹ノ記憶【R18】
「――んん……っ」
私の腕の中でひと際強く身を張り詰めさせたあと、やがて緩やかに解けていく体躯を、私は今宵も離そうとせず抱き竦め続けていた。
事後の浅く速い呼吸は、いつだって冷めやらぬ熱を帯びている。
互いの汗ばんだ肌は、触れ合わせれば吸い付くように体温を分け合った。
フィンの指先が、気怠げに私の胸を撫でる。
その些細な感触ひとつにさえ、まだ冷めやらぬ熱が疼く。
それらの余韻を噛み締めるように、私はこの穏やかな時間を愉しんでいた。
ふと、これまで一度も聞いたことのないことを尋ねてみたくなった。
「――フィン。お前の幼い頃の話を、聞かせてくれないか」
腕の中のフィンが、僅かに身を強張らせた。
「……なぜ、急に」
「知りたいと、思った。お前が、どんな子供だったのか」
これまで私は、フィンの過去を聞くことを、どこか避けてきた。聞けば、自分の罪の重さを、また新たに思い知らされる。そんな臆病さが、私の中にあった。
だが、それではいけないのだと、今は思う。
私が犯した罪から、目を逸らし続けるべきではない。
フィンは、しばらく黙っていた。やがて、静かに口を開いた。
「――王宮の中庭に、大きな菩提樹がありました」
その声には、これまで聞いたことのない、柔らかな響きがあった。
「母上は、よくそこで僕に本を読んでくれました。この国の言葉も、他国の言葉も、母上が教えてくれたのが最初です」
「――お前の、博識の始まりか」
「はい。母上は、多くの言語を解する方でした。外交の場でも、その知識で父上を助けていたと聞いています」
フィンの表情が、僅かに緩んだ。
それは、これまでとはまた違った穏やかさを湛える笑みだった。
「父上は、決して英雄と呼ばれるような方ではありませんでした。剣も政治も、飛び抜けて優れた方ではなかった。ですが、民は皆、父上を愛していました。よく城下へ出て、一人ひとりの声を聞いていたからでしょう」
フィンは、遠くを見るような眼をして続けた。
「父上が城下に出るときには、決まって僕もついていきました。護衛は最小限で、それでも危ない目に合った記憶は一度もありません。街の人たちは皆、温かかった。作物がたくさん実ったこと、子供が歩けるようになったこと、そんな話を聞いているときの父上の笑顔が好きでした。父上は皆の名を覚えていて、皆も家族のように僕たちに接してくれました」
それは、私の知る『王の姿』とは掛け離れていた。
けれど、それこそが私の憧れる王の姿であると、そう思えた。
私は父と街を歩いた記憶など、一度もない。
父上が民の名や顔などを覚えているはずもなく、民もまた、父上の笑顔を知らない。
言葉を詰まらせる私を胸元から見上げ、フィンは微笑んだ。
「殿下は、父上に似ています」
私は息を呑んだ。
――父上に、似ている。
その言葉は、私にとって呪いだった。
人を駒としか見ず、民を人とも思わぬ男。
私が最も否定したい存在に他ならない。
思わず表情が曇った私に、フィンは静かに首を横へ振った。
「……違います。僕の父上に似ていると言ったのです」
その言葉に、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
「お前の……父君に……?」
先ほどまで語られていた、城下を歩き、民の名を呼び、誰よりも民を愛した王。
その人に似ている、と、そう言われたことが、すぐには理解できぬほどに衝撃だった。
言葉にならない熱が胸に込み上げる。
私は父から一度として認められたことはない。兄たちからも蔑まれ続けた。
けれど今、私が最も敬う男の口から、私がなりたいと願う王に似ていると言われた。
その一言は、どんな褒美よりも胸を満たしてくれた。
「弟が生まれた時のことも、覚えています。まだ小さくて、いつも僕の後ろをついて回っていました。剣術の稽古をしていると、真似をしたがって、木の枝を振り回しては転んで」
そこで、フィンの声が、僅かに詰まった。
「――擦り剝いて、わんわん泣いて。僕が助け起こすと、決まって『兄上のようになりたい』と」
その先の記憶がどこへ向かうのか、私にはもう分かっていた。
私は何も言わず、ただフィンの背を、そっと撫でた。
「あの日、母上は僕だけを逃してくれました。弟は、母上の傍を離れようとしなかった」
声が、震え始めていた。
「僕が最後に見た弟の顔は……泣きながら、それでも母上の手を、離さずにいる顔でした。ほんの小さな掠り傷ですら痛いと泣いていた弟が……あのとき、どれだけ怖かったか……弟だけでも、助けてやりたかった……っ……」
私は、何も言えなかった。
ただ、私の胸元に顔を押し付け、声を殺して震えるフィンの背を、宥めるように何度も撫でた。
境界が曖昧となった身体の奥で、フィンが小さく啜り泣くたび、どちらのものともつかぬ熱がひくりと疼くのを感じていた。
「すまない」
「――っ……」
「すまない、フィン」
「……謝らないで、ください」
フィンは再度顔を上げ、涙を零しながらも、微かに笑った。
「これは、殿下に聞いてほしかった話でもあるのです。僕の中に、ただ憎しみだけがあったわけではないと、知っていただきたかった」
「――あぁ」
「母上の教えも、父上の不器用な優しさも、弟の無邪気な笑顔も。すべて、僕の中にまだ生きています。それを、殿下に知っていただけたなら」
フィンは、私の頬に、そっと手を添えた。
「僕の過去は、ただの悲劇ではありません。愛された記憶があったから、僕は今もこうして、誰かを愛することができるのです」
私は、その言葉に返すべき言葉を持たなかった。
愛を知る者は、人を愛することができる。
フィンは祖国を失った。家族も失った。
それでもなお、その胸には、人を慈しむ温もりが残っている。
私自身の幼少期には、こんな温かな記憶がどれほどあっただろうか。
母を早くに失い、父からは駒としてしか見られず、兄たちからは嘲笑われる日々。
私は何不自由ない身分を与えられながら、その温もりだけは終ぞ知らぬままここまで来た。
フィンが語る、たとえ短くとも確かにあった愛の記憶を、私は羨むと同時に、その喪失の重さに改めて胸を痛めた。
「フィン」
「はい」
「お前の家族の話を、これからも、聞かせてくれないか。すべて、覚えておきたい」
フィンは、驚いたように目を見開いた後、静かに頷いた。
「――喜んで」
フィンは目元の涙を指先で拭うと、少し照れたように、けれど自分から、私の首に腕を回してきた。
その仕草だけで、納まりかけていた熱が、また違う形で胸に灯る。
私はフィンの涙の跡をたどるように頬へ唇を寄せ、それから、ゆっくりと彼の身体を組み敷いた。
「今度は……お前の話を、この手にも覚えさせてくれ」
掠れた声で囁くと、フィンは小さく笑って、私の背に腕を回す力を強めた。
一度は静まった肌に、また熱がともっていく。触れるたび、互いの鼓動が近づいていくのが分かった。
それは、先程までとは違う、確かめ合うような緩やかな律動だった。
言葉にできない想いを、指に、唇に、そして重なる腰の動きに乗せて、私たちは何度も伝え合った。
フィンの声に宿る温もりと、時折滲む涙の両方を、私はその身で受け止め続けた。
これは、償いにはならない。
あの日潰えた命も、奪った時間も、返すことなどできはしない。
それでも私は、フィンが語る一つひとつの記憶を胸に刻もうと思った。
彼の父を。母を。弟を。
私が知らなかった彼の人生を、これからは私も共に背負っていくために。
「……ぁ、あ、……っ」
こんなにも愛おしい存在があるということを、私は初めて知った。
愛を知らなかった私に、フィンはそれがどういうものであるのかを教えてくれた。
不器用な私は、この想いをうまく言葉で伝えることができない。
ならばせめてと、自らの想いのすべてを触れ合う肌に乗せて、身を重ねた。
フィンはそれを、全身で受け止めてくれた。
不規則に身を強張らせ、喉を震わせて啼く彼を、本当の姿かと疑うようなことはもうしない。
窓の外では夜風が木々を揺らしていた。
フィンが語った王宮の菩提樹も、このような音を立てていたのだろうか。
私にはもう知る術はない。
だからこそ、その記憶だけは失わせたくないと、強く思った。
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