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Episode29 王タル者ノ条件

ルインハルト殿下は、僕を私室に招き入れた。 「――シルヴァーンの、王子殿下」 そう呼ぶ彼の表情には、これまでの穏やかさが微塵も残っていなかった。 皇帝と同じ、氷のような彩をした瞳が、僕を射る。 「随分と、面白い正体を隠していたものだな」 「――お耳が早いことですね」 「元老院に色々吹き込んだそうじゃないか。グルザス公は、あれでなかなか動く時は動く男でね。お陰で少々、面倒なことになっている」 ルインハルト殿下は、長椅子に深く腰掛け、僕を見上げた。 その目には、これまで一度も見せなかった剥き出しの敵意があった。 「――もう、演技をなさらないのですね」 「する必要がなくなったからな」 殿下は酒を一口含み、口の端を歪めた。 「父上は死んだ。ノルヴィスは離宮で腐っていく。ヴィルヘルムは牢の中だ。私が演じなければならぬ相手は、もういない」 背を長椅子に預け、脚を組みながら肩を揺らす殿下を、僕はじっと見据えていた。 「私が、いるようですが」 「お前が?自惚れるな。お前には演じる価値もない」 その言葉には、明確な侮蔑があった。 「奴隷風情が、随分と調子に乗ったものだ。お前が元王子だろうと何だろうと、私の目には犬にしか映らない」 「――犬、ですか」 「あぁ、犬だ。身の程も弁えず噛みついてくる躾のなっていない犬。ヴィルヘルムにとっては有用な駒のようだが、私にとっては思い通りに動かず、ましてキングに噛みつく駒など目障りでしかない」 ルインハルト殿下は、笑った。心底愉快そうな笑みだった。 「ヴィルヘルムは、お前に絆されて甘くなった。あれは、昔から不器用な男だったが、まさかここまで愚かになるとは思わなかったよ。奴隷風情に心を許し、挙句、玉座まで狙ってこようとは」 「殿下は、弟君をそこまで見縊(みくび)っておいでですか」 「見縊る?いや、正しく評価しているだけだ。あれは、優秀だ。優秀過ぎて、厄介だった。父上が最も警戒していたのも、私ではなくあれだ。だがあれは元より皇帝の座などには興味がなかった男だ。だからこそ、有能ではあったが泳がせておいた」 殿下の声に、初めて感情の色が滲んだ。それは、微かな苛立ちだった。 「だがお前のせいで、あれは変わってしまった。王座を狙う目になった。ならば蹴落とすしかあるまい。皇帝の弟として穏やかな人生を歩めるはずだったものを……お前のせいで、あれの人生は変わってしまったのだ」 その言葉に、胸の奥で何かが静かに軋んだ。 確かに、殿下は僕と出会わなければ、彼の言うように皇帝の弟君としての人生を送ったに違いない。 それはもしかしたら、今よりもずっと静かで穏やかな時間だったのかもしれない。 ―――けれど。 僕は、初めて殿下に会ったときのことを思い返した。 初めて見た彼は、冷徹なようでいて、どこか寂しげだった。 諦めと孤独がない交ぜになったような、昏い眼をしていた。 あの眼を、僕は知っている。 何かを望むことを諦めた人間の眼だ。 似ている、と思った。 殿下と出会う前。かつての僕も、同じ眼をしていた。 けれど、彼は本当に何も望んでいなかったわけではない。 民を想い、誰かが苦しんでいれば心を痛めることができる。 理不尽を前にすれば、それを見過ごすことができない。 そんな優しい人が、この非道を貫く帝国で、あの眼のまま生きていく。 その未来を想像しただけで、胸が締め付けられた。 だからこそ、僕は決めたのだ。 彼を、皇帝にすると。 この人を、腐敗した帝国に閉じ込めておいてはいけない。 あの眼をした人間を、この国の中に埋もれさせたくはない。 僕が彼を変えたのではない。 彼の中には、最初からあったのだ。 抑えつけられ、自分自身ですら気づけなくなっていたものが。 僕はただ、それを見つけただけ。 そして、彼自身に気づかせただけなのだ。 だから――あの人が皇帝を目指すことを、僕は間違いだとは思わない。 「確かに殿下は……殿下の人生は、僕と出会って変わってしまったのかもしれません。ですが、私の人生もまた変わりました。でもそれは、悪いことではありません」 僕は殿下に『望むこと』を思い出させた。 殿下は僕に『生きること』を思い出させてくれた。 殿下に会えてよかった。 それがすべての答えなのではないだろうか。 「父帝陛下を手にかけたのは、あなたですね」 「そう思うか」 ルインハルト殿下は、低く喉を鳴らした。 「ならば、それでよい」 「否定はなさらないのですか」 「否定する必要があるか?」 優雅に足を組み替え、問うてくる。 「証拠はあるのか」 「――……」 「ないならそれは妄想でしかない。下手なことは口にせぬことだ」 殿下は空になったグラスに、酒を注いだ。 血のように赤い液体が、グラスを満たしていく。 「だが、そう思われても仕方がないことだ。父上は、最後まで私を皇太子ではなく駒として扱った。父を超えるためには、父のやり方をなぞるしかない」 「殿下は、陛下と同じものになろうとしておられるのですか」 「同じではない。私は、父上より上に行く。私の方が、遥かに巧くやれると思っている」 その言葉に、僕はふと理解した。 この男もまた、父帝という化け物の影から、逃れられずにいるのだと。 「父上は、駒を壊すことを愉しんだ。私は違う。駒は壊さず使い続ける方が、遥かに効率的だ。ヴィルヘルムも、いずれ私の駒として使い道が見つかれば、生かしておいてやらんこともない」 「――そのようなこと、あの方が許すはずもございません」 「許すも許さぬも、私が決めることだ」 殿下は、僕を見据えた。侮蔑と、値踏みの色が入り混じった目だった。 「――お前も、道具として使われてみるか?その頭脳、その美貌、その正体。うまく使えば、帝国にとって有用な駒になるやもしれん。尤も、お前に使われる気があればの話だが」 「お断りいたします」 僕は、はっきりと答えた。 「私がお仕えする主は、お一人だけです」 殿下はしばらく僕を見つめた後、小さく笑った。 「――残念だ。忠義だけは、褒めてやろう。だが、覚えておけ。この帝国で最後に立つのは、私だ。ヴィルヘルムではない」 彼は迷うことなく断言する。 これまで仮面の下に隠されていた、絶対的な自信だった。 「元老院をつついたところで無駄だ。あれらは父の代で既に力を失っている。お前一人の力で、どこまで抗えるか見物だな」 「私は、一人ではありません」 「まったく、気が強いことだ。私が皇帝になったら――そうだな、傍らにでも侍らせるか。その見目は、殺すには惜しい。お前の意思を消す方法など、幾らでもある。頭脳が使えなくなるのは少々痛いがな」 殿下はぞっとするほどきれいな顔で嘲笑いながら、立ち上がった。 そうして僕に背を向けると、半身だけ振り返る。 「――ヴィルヘルムにも伝えろ。お前がどこまでやれるのか見せてみろ、とな」 窓側に立つ殿下は、逆光を背負っていた。 黒く浮かび上がる輪郭を見据え、僕は口を開いた。 「最後にひとつだけ、お聞かせ願います。殿下が皇位に就かれた際は、この帝国はどのような国となりますか」 僕の問いに、殿下の双眸がすっと細められた。形の良い唇が、緩慢に弧を描く。 「安定した国だ。誰もが法の下に平等で、秩序ある繁栄を享受できる国になる」 その言葉には、これまでのどんな脅し文句よりも、実体のない虚しさがあった。 これで満足か、と、そう問われているような気がした。 僕は、その『正しさ』の裏に、何一つ具体的な民の顔が浮かんでいないことに気づいていた。 「――具体性の、欠片もございませんね」 「具体性、か」 殿下は、僅かに片眉を上げた。 「王とは、細部にまで手を伸ばすものではない。理を敷き、大枠を定めれば、あとは勝手に回っていくものだ。飢える者がいれば、それはその者の運が悪かっただけのこと」 その物言いに、僕は静かな怒りを覚えた。 父帝とはまた違う、しかし同じだけ人を人として見ていない、冷え切った理屈だった。 「――ヴィルヘルム殿下は、飢える者の名を、一人ひとり覚えようとなさいます」 殿下の肩が、揺れる。嘲笑うように。 「少なくとも、駒に恋をして国を傾けるような、甘い治世にはならんだろうな」 その一言に、侮蔑と、そして僅かな苛立ちが滲んでいた。 僕はそれを、黙って受け止めた。 言葉を返す必要は、もうなかった。 この対話だけで、二人の統治者としての質の違いは、既に明らかだったから。 僕は深く一礼し、その場を辞した。 廊下を歩きながら、確信する。 やはり皇帝になるべくは、ヴィルヘルム殿下を除いて他にはない。 だが、どうすればいい。 証拠だけでは、この男を完全に沈めることはできない。 密偵機関も、軍の一部も掌握された今、元老院だけでは足りない。 この男を玉座から引き摺り下ろすには、まだ盤上に足りない駒がある。 ――駒を、探さなければ。 窓の外を見遣る。 低く広がる曇天は、この帝国を深い闇の中に沈めていた。 第四章 了

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