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Episode30 繋ガル空

牢獄の窓は、小さかった。 格子の嵌められたそれは、空を眺めるにはあまりにも狭い。 けれどその小さな枠組みから見える空は、驚くほど広かった。 薄暗く黴(かび)臭い世界に在っても、眼前に広がる空だけは何ひとつ変わらない。 厚く低い雲が流れていく。 風に煽られるまま、往く宛ても定めぬままに。 その行方を追うでもなく、ただぼんやりと眺めていた。 「……フィン」 呼んでも、届くはずのない名だった。 それでもその名を口にしたなら、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの僅かに緩んだ気がした。 空は、どこまでも繋がっている。 今頃フィンも、同じ空を仰いでいるだろうか。 別れ際、真っ直ぐに私に向けられていた眼差しを思い返す。 ふと、吐息を逃す。自ずと、口角が緩んだ。 牢獄の壁に背を預け、私は空を見上げ続けた。 この冷たい牢の中にも、まだ外と繋がる場所が残されているような気がした。 ※ 牢の扉が開かれたのは、それから五日後のことだった。 「――ヴィルヘルム殿下。元老院の決議により、殿下の身柄は解放されます」 グルザス公自らが、その報せを持ってきた。 私は、差し出された証拠書類の束に目を通しながら、深く息を吐いた。 「フィンが……」 「シルヴァーン王家の遺児が、見事な働きを見せてくれました」 グルザス公は、僅かに目を細めた。 「それだけではありません。彼の伝手で、旧シルヴァーン王国の生き残りの重鎮たちが、証言に協力してくれました。かつての交易記録や、密偵機関の不審な動きについて、彼らも独自に掴んでいたようでして」 その言葉に、私は驚きを隠せなかった。 フィンが、たった一人でここまで盤面を動かしていたとは。 「加えて」 グルザス公は、続けた。 「北部三州からも、殿下への支持を表明する声が上がっています。殿下が私財を投げ売って救った、あの土地の民たちです。彼らに続こうとする州も、数多くあります。殿下の統治される地域のほぼすべてが、殿下の御力添えになりたいと」 私は、言葉を失っていた。 フィンの知略だけでなく、私自身がこれまで積み上げてきたものもまた、この窮地を救う力になっていたのだ。 「――ルインハルト兄上は」 「既に、身柄を確保しております。証拠は揃い過ぎるほど揃っております。もはや、言い逃れはできますまい」 私は、深く頭を下げた。 「――感謝いたします」 「礼は、フィンバール殿に。彼がいなければ、我々もこれほど早くは動けなかった。――ルインハルト殿下の元へ、参りましょう」 牢を出た私は、兄上の元を訪れた。 ルインハルト兄上は、既に軟禁されていた。 元老院の決議を受け、抵抗する術を失った兄上は、それでも私の前であの完璧な仮面を崩さずにいた。 「――ヴィルヘルム。随分と、早い生還だな」 私が部屋に入ると、兄上はそう言って笑った。 「元老院を完全に味方につけるとは、大した手腕だ。もっとも、それを成し遂げたのはお前ではなく、あの男なのだが……侮り過ぎていたようだ」 「――兄上」 私は、真っ直ぐに兄上を見据えた。 「父上を手にかけたこと、そして私に無実の罪を着せようとしたこと。すべて、明らかになりました」 「――それで?」 「元老院の決議により、兄上を、反逆の罪で処します」 その言葉に、兄上は、初めて僅かに表情を動かした。 だがそれは恐怖の感情というよりも、むしろどこか諦めにも似たような、乾いた笑みだった。 「――お前が、私を処す、と。あの、優しさだけが取り柄だった弟が」 「優しさだけではこの国は守れないと。そう教えてくださったのは、兄上です」 私は、拳を握りしめた。 「兄上を、生かしておくことはできません。それが、この帝国のためであり――そして、私自身が、父上とも兄上とも違う人間であることを、証明するためでもあります」 兄上は、しばらく私を見つめていた。 その目に浮かぶのは、侮蔑でも恐怖でもなく、どこか奇妙な、憐れみにも似た色だった。 「――ヴィルヘルム」 「何でしょう」 「お前は私を殺すことで、父上とは違う人間になれると、本気で思っているのか」 「――兄上」 「愚かだな」 兄上は、笑った。乾いた、力のない笑みだった。 「お前も、私も。所詮は、父上の血を引く傀儡に過ぎん。父上を殺した私も、その私を殺すお前も、同じ血の中で踊らされているだけだ。血の呪いからは、誰も逃れられん」 「――違います」 「違わない」 兄上の声が、初めて強くなった。 「お前がどれほど民を想おうと、どれほど清廉であろうと藻掻こうと、この手で兄を裁いたその瞬間から、お前も、この血の呪いの中に確かに組み込まれるのだ」 私は、何も言い返すことができなかった。 ただ拳を握りしめ、その言葉を、正面から受け止めるしかなかった。 兄上は昔、よく私の頭を撫でてくれた。 書庫で本を譲ってくれたこともあった。 その優しさが本心だったのか、偽りだったのか――もう、私には分からない。 いつからだったか。兄上の笑顔が信じられなくなったのは。 どうしてだったか。掛け違ったことに気付きながらも、そのまま進み続けてしまったのは。 私たち兄弟は、どこで間違ったのだろう。 「――連れて行け」 私は、辛うじてそう命じた。 兵士たちに連れられていく兄上の背を、私は最後まで見送った。 その背中は、これまでの完璧な仮面が嘘のように、ひどく小さく見えた。 処刑の日取りは、一週間後と定められた。 ※ 私室の扉を開けると、フィンがいた。 窓辺に立ち、外を見つめているその姿は、これまで見たどのときよりも疲れ切っているように見えた。 だが、その身に纏う静謐な雰囲気は以前と何ら変わらない。 佇む姿はぴんと張り詰めた糸を思わせ、部屋の空気までもが緊張に満ちているようだった。 「――フィン」 名を呼ぶと、フィンは弾かれたように振り返った。 「――殿下」 その声は、震えていた。 私が歩み寄ると、フィンは堪えきれなくなったように、私の胸に飛び込んできた。 「――殿下、殿下……!」 張り詰めていたものが断ち切れたように、フィンは声を上げて泣きだした。 「よかった……本当に、よかった……!」 私は目頭が熱くなるのを感じながら、その細い身体を強く抱き締めた。 「――すまなかった。お前一人に、これほどの重荷を背負わせて」 フィンは、しゃくり上げながら、私の胸に顔を埋めた。 腕の中に納まったその身は、ひどく震えていた。 背にしがみつくように回された手からも、震えが伝わってくる。 「殿下が牢に連れて行かれてから、僕は、ずっと……もし、間に合わなかったらと、そればかり考えて……」 その声は、これまで見せてきた冷静沈着な策士のものではなかった。 ただ、大切なものを失うことを恐れる、一人の人間の声だった。 「……フィン……すまなかった、本当に」 私は、フィンの背を、ゆっくりと撫でた。 「お前のおかげで、私は生きている。お前が、私を救ってくれた」 「――殿下」 フィンは私の胸元に顔を押しつけたまま、すんと鼻を鳴らした。 つい先ほどまで、静かに窓の外を眺めていたときには、何にも頼らぬような凛とした姿を見せていた彼が、今はこうして私に縋りついている。 その事実だけで、狂おしいほどに胸が締め付けられた。 「フィン……無理をさせたな」 元より細い体躯が、さらにやつれたように思われた。 白金の髪を静かに撫でてやると、フィンは胸元からそろりと顔を上げた。 その大きな瞳からは、大粒の涙が止め処なく溢れている。 私はそれを指の腹で拭いながら、濡れた硝子玉のような瞳を見下ろしていた。 赤く染まった目元を、深い隈が飾っていた。恐らくろくに眠っていなかったのだろう。この様子では、きっと食べることもしていない。 「無理はするなと言ったのに……身体を壊すぞ」 「殿下に……早く会いたくて……」 「――フィン……!」 何処までも健気なフィンに、私の心はひどく搔き乱された。 フィンは、涙に濡れた目元を拭うこともせず、じっと私を見つめていた。 その瞳には、すべてを委ねるような安堵と、私に寄りかかるような気配が滲んでいた。 「もう、離れないでください……」 「離れない。もう、二度と」 私は、フィンの額にそっと口づけを落とした。 十年もの間、誰に頼ることもせず、一人の力で立ち続けてきた青年は、常に私を支え、導く側にいた。 だが今、この腕の中で泣きじゃくる彼は、私が支えなければ立つことさえままならぬようだった。 その脆さを、私は初めて、正面から受け止めることができた気がした。 ――守りたい。 これまでとは違う種類の想いが、私の中に静かに芽生えていた。 支配される側の依存でも、償いのための執着でもない。 ただ純粋に、この存在を守りたいという、真っ直ぐな願いだった。 私は、フィンを抱え上げた。ふわりと浮いた身体は、思っていた以上に軽かった。 フィンは抗うことをせず、私の首に腕を回し、ぎゅっとしがみついてきた。 そのままその身を寝台へと横たえる。視線が、至近に交わった。 言葉はもう、必要としなかった。

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