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Episode33 父ノ影

処刑の決行日まで、私は何度も兄上のもとを訪れようとした。だが、その度に足が止まった。 何を話せばいいのか。何を問えばいいのか。 そして何より――最後に、兄上の眼を見たとき、自分は何を言えるのか。 交わした最後の言葉が、何度も脳裏に蘇る。 ――お前は私を殺すことで、父上とは違う人間になれると、本気で思っているのか。 あのときは、答えられなかった。今もまだ、答えは出ていない。 そうして、処刑の日の朝を迎えた。報せが届いたのは、静かな時間だった。 「――ラインハルト殿下が、独房にて亡くなられました」 私は、しばらくその言葉の意味を理解できなかった。 「……何?」 「今朝、看守が発見したとのことです。既に息はなく――」 その先は、耳に入らなかった。 兄上が、自らの死を選んだ。その事実だけが、頭の中を空白にしていく。 私は、独房へ向かった。本来ならば、もう二度と足を踏み入れる必要のない場所だった。 だが、確かめなければならない気がした。何を確かめたいのか、自分でも分からないまま、足だけが急いていた。 扉が開き、冷え切った空気が流れてくる。噎せ返るような鉄錆びの臭いが、鼻腔を刺激した。 冷たい鉄格子の向こうに、兄上がいた。 あれほど言葉を操り、誰よりも美しい仮面を被り、最後まで人の上に立とうとしていた男が、ただ静かに、そこにいた。 「……兄上」 呼んでも、返事はなかった。 当然のことなのに、その事実がひどく重かった。 紅く染まったその傍らに、小さな刃が落ちていた。兄上が隠し持っていたものだろう。 これで静かに喉を裂き、自ら命を絶ったのか――抵抗も、命乞いも、一切なく。 私はその場に縫い付けられたように、動けなかった。 ふと、壁に目が留まる。そこには、血で書いた文字が残されていた。 『父上』 一つ。また一つ。同じ言葉が、何度も何度も繰り返されていた。 最初は兄らしく、整然とした文字だった。けれど繰り返されるにつれ、筆致は乱れ、やがて判別することすら難しいものになっていた。 私はその文字を見つめたまま、茫然と佇んだ。 ――父上。 それだけだった。それだけなのに、私はそこに兄上の人生を見た気がした。 父上に認められたかったのか。 それとも、憎んでいたのか。 あるいは、愛してほしかったのか。 もしくは――父上のようになりたかったのか。 兄上自身に尋ねることは、もうできない。けれど、ひとつだけ分かった。 最後まで、兄上の中から父上は消えなかったのだ。 父上は、私たち兄弟にとって、あまりにも大き過ぎた。 彼を憎み、恐れ、抗い、そして同時に、その背中を追い続けた。 父を嫌っていた私も、きっと同じだった。あのような人間にはならないと、何度も自分に言い聞かせてきた。 けれど、それはつまり――いつも父を見ていたということではないのか。 父とは違う人間になりたいと、父に認められたいと、父を超えてみせると。 そう願いながら、私はずっと、あの人の背中を見て生きてきたのだ。 「――私も……こうなるのではないか」 気づけば、言葉が零れていた。 「殿下」 隣にいたフィンが、静かに私を呼ぶ。 「この身には、父上と同じ血が流れている」 声にすると、それはひどく恐ろしいものに思えた。 「私は父を憎んでいた。あのようにはならないと、そう思っていた。だが……憎んでいたからこそ、見ていた。あの人の背を、ずっと」 私は、拳を握った。 「兄上も、そうだったのだろうか」 壁に残された文字の意味は、もう誰にも分からない。 『父上、見ていてください』 『父上、愛してください』 『父上、認めてください』 『父上、あなたが憎い』 『父上、私はあなたのようになりたくはない』 『父上、許してください』 『父上、私はあなたのようになりたかった』 『父上、今あなたの元へ参ります』 どれも、兄上ならあり得ると思った。 兄上が最後に何を思っていたのか、それを知る術は、もうない。 ――血の呪いからは、誰も逃れられん。 兄上の声が、蘇る。 生への執着などとうに忘れたような眼をして、兄上は言っていた。 それは本当に、呪いなのだろうか。それとも、私たちが自らを縛りつけていたものを、そう呼んでいただけなのだろうか。 私には、分からない。ただ、確かなことが一つある。 私はこの手で、実の兄を裁くと決めた。兄上が最後に選んだ道が何であれ、私が兄を裁こうとしたという事実は消えない。 これから先、どれほど善政を敷こうと、どれほど多くの民を救おうと、その罪だけは、私の中から消えることはないだろう。 「殿下」 フィンの声が、すぐ隣から聞こえた。私は答えなかった。答えられなかった。 フィンの手が、そっと私の手に重なる。 何も言わず、慰めようともせず、ただそこにある温もりだけが、今の私にはありがたかった。 私はゆっくりと、その手を握り返した。 「……フィン」 「はい」 「私は――……」 言葉が喉に詰まった。 私は父とは違うのだろうか。兄上とは違うのだろうか。この血から逃れることができるのだろうか。 そんな問いを口にしてしまえば、フィンまで困らせる気がした。だから、別の言葉を選んだ。 「……生きなければ、ならないな」 フィンの指に、僅かに力が籠るのが分かった。 「はい」 短い返事が返るだけで、込み上げるものがあった。 「すべてを背負って、この先も」 「――はい」 「……独りでは、無理かもしれない」 今までなら、決して口にはしなかった言葉だった。 私を見上げてくるフィンの、碧い瞳に映った自分は、ひどく情けない顔をしていた。 「僕がいます」 静かな声は、何よりも私の心を震わせた。 「……っ……」 この先、何度でも迷うだろう。父の影に怯えることもあるだろう。兄を裁いたことを悔いる日も、きっと来る。 それでも。 この温もりがある限り、私は歩いていけると、そう思った。 視界に映るフィンの顔が、次第にぼやけていく。 頬を伝う雫の冷たさだけが、いやにはっきりと分かった。 私はそれを、拭おうとはしなかった。泣くことすら、今の私には必要なのだと思った。 兄上のためなのか。父上のためなのか。それとも――これからも生きていく、自分自身のためなのか。 その答えが分からぬままに、私は涙を流し続けた。 フィンは静かに、その傍らに寄り添ってくれていた。

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