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Episode34 新タナル王冠

戴冠式の朝は、雲ひとつない晴天だった。 昨晩まで空を低く覆っていた暗雲は、嘘のように消えていた。 大聖堂の高い天井から差し込む朝の光が、玉座へと続く赤い絨毯を照らしている。 祭壇には帝国の紋章が掲げられ、その下に、今日から私が座る玉座がある。 集った貴族、元老院の重臣たち、そして各州から参列した代表者たちの、数え切れぬほどの人間の視線が、私一人に注がれていた。 かつてなら、この光景を見ても何も思わなかっただろう。 皇帝の座など、私には関係のないものだった。 父上がそこに座り、兄上たちがその背中を追い、私はただ己の務めを果たす。 それ以上でも、それ以下でもなかった。 分かっている。私はただ、逃げていただけなのだ。 私などが足掻いたところで如何なるものでもないと、帝国を蝕む問題から、絶対的な皇帝である父上から、眼を逸らし続けていた。 ――だが、もう逃げることはしない。 私は真っ直ぐに、玉座を見据えた。 そこに座るということは、父の残したものをすべて引き受けるということだ。 繁栄も、罪も、この帝国によって流され続けてきた血と涙も。 そして、自らの手で兄を裁こうとした私自身の罪のすべても。 グルザス公が、恭しく王冠を捧げ持つ。 「――ヴィルヘルム=ジス=グランシュタット殿下」 大聖堂に、重厚な声が響く。 「この王冠を、お受けになりますか」 私は、改めて王冠を見つめた。 金と宝石で飾られたそれは煌びやかであると同時に、ひどく重いものにも見えた。 父の狂気や、兄たちの末路、そして十年前に焼かれた国――そのすべての先に、今、私が立っている。 ふと、白金の髪が脳裏を過った。 ――フィン。 彼が私に託したものや、彼が信じてくれた未来を思えば、不思議と迷いはなかった。 私は、一度だけ目を閉じる。 そして、徐に目を開いた。 「――受けよう」 頭上に置かれた王冠の重みは、想像していたよりも遥かに、実感を伴うものだった。 私が顔を上げると同時、わっと、歓声が上がった。 「グランシュタット帝国、新皇帝陛下に、栄光あれ!」 空気を揺るがすような声が、大聖堂に響き渡る。 けれど私はその歓声の中にあっても、無意識のうちにある一点を探していた。 参列者の列の端――少し離れた場所に、フィンが立っていた。 奴隷の粗末な衣ではなく、かといって貴族の正装でもない、簡素だが品のある装束をその身に纏う彼は、これまで見てきたどんなときよりも、確かな威厳があった。 白金の髪は朝の光を受け、淡く輝いている。 光の中のコバルトブルーの瞳が、私を見ていた。 視線が交わると、ほんの一瞬、フィンは微笑んだ。 私もまた、自ずと浮かんだ微笑を返す。 今日から、この国を治める。 彼が信じてくれた未来を、現実にするために。 私は、玉座へと向き直った。 ※ 戴冠式を終えた後、私はフィンを私室へ呼んだ。 ようやく、誰の目もない二人きりになった。 「――フィン」 「陛下」 フィンにそう呼ばれ、胸の奥が僅かに疼いた。 その響きがもつ重みに、背筋の伸びる思いがする。 「……その呼び方は、まだ慣れないな」 「僕もです」 フィンが、ほんの少しだけ笑った。 その笑顔を見て、私はようやく肩の力を抜いた。 「お前にひとつ、聞いておきたいことがある」 「――何でしょう」 「お前の祖国、シルヴァーンのことだ」 その一言に、フィンの表情が僅かに揺れた。 「元老院を通じて調べさせた」 私は机上に置かれていた書類へ目を向ける。 「旧シルヴァーン王家の血を引く者として、お前には独立した領地を再興する権利がある。旧王国領の一部についても、返還を求めることは可能だ」 フィンは黙って聞いていた。 「望むならば、私はそれを認めるつもりだ。シルヴァーンを、もう一度国として立ち上げることもできる」 その言葉に、フィンの睫毛が僅かに伏せられた。 「お前がその道を選ぶというのなら、私は咎めない」 それは皇帝としての命令ではなく、ただ、ヴィルヘルムとしての意思だった。 「お前には、その権利がある」 長い沈黙のあと、フィンは懐へ手を入れ、あの短剣を取り出した。 十年間、彼が肌身離さず持ち続けてきた、祖国の紋章が刻まれた刃。 復讐のために研ぎ続けた刃は、亡国の王子であることを証明する、最後の証でもあった。 「――この短剣は、僕にとって二つの意味を持つものでした」 フィンは、静かに語り始めた。 「一つは、復讐の証。もう一つは、僕が誰であるかを証明するための、最後の拠り所」 私は何も言わず、その横顔を見つめた。 十年前、炎の中から、この刃だけを抱えて逃げ伸びた少年。 すべてを失って、それでも自身の証明だけは手放さなかった。 その十年を、この短剣はずっと知っている。 「ですが――もう、必要ありません」 「……フィン」 フィンは短剣を、両手で静かに差し出した。 「僕はもう、シルヴァーンの王子として生きることを望んでいません」 その言葉を聞いた瞬間。胸の奥に、僅かな痛みが走った。 それが彼の望みなら尊重すべきだと、そう思う一方で、十年間、彼を支えてきたその名まで失わせてしまうことが、果たして本当に正しいのか――そんな迷いがあった。 「僕の国は、十年前に滅びました。それは、変えようのない事実です」 そして、彼は私を見た。 「ですが、あなたがこれから作るこの国であれば――それが、僕の新しい祖国です」 その碧い瞳には、もう復讐の炎はなかった。 「シルヴァーンの再興は、僕の名を継ぐ誰かのためではなく……あなたが治めるこの帝国の中で、旧シルヴァーンの民が安らかに暮らせる未来として、実現させたいのです」 ――そうか。 私は、ようやく理解した。 彼は祖国を捨てたのではない。 国という形を失ったシルヴァーンを、今度こそ別の形で救おうとしているのだ。 かつては復讐することしか考えられなかった青年が。 今は、復讐ではなく未来を選んでいる。 「フィンバール=ノイ=シルヴァーンという名は――」 彼が、一度だけ息を吸った。 「今日、ここで終わります」 差し出された短剣を、私はそっと受け取った。 ずしりとした重みは、十年間のすべてが、この小さな刃の中に詰まっていることを物語っていた。 「陛下に、お預けします。僕の過去のすべてを」 私は、その刃をしばらく見つめていた。それから、静かにそれを鞘に収めた。 「――預かろう」 それから、私はフィンの手を取った。 細い指――かつて奴隷として鎖に繋がれていたその手が、今は私の手の中にある。 「だが、忘れるな。お前がシルヴァーンの王子であったという事実は、私が生涯覚えている。お前が、その名を捨てたとしても」 私は、その手を強く握った。 「私は、決して忘れない」 フィンの瞳が大きく揺れた。 そして、ぽたりと、一粒の涙が零れ落ちる。 私は指の腹で、それを拭った。 「お前が背負ってきた十年も、失ったものも、憎しみも、復讐も――なかったことにはさせない」 フィンの唇が僅かに震える。 「それらすべてを抱えたお前を、私はここまで連れてきたのだから」 「……陛下」 「そして、ここから先は私と共に歩め」 その言葉に、フィンはしばらく何も言わなかった。 やがて深く目を伏せると、頬を伝った新たな雫が、たて続けに床へと落ちた。 「……はい」 私は、そのうつくしい泣き顔を、じっと見つめていた。

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