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【番外編】Episode01『父上、見ていてください』

その日、グランシュタット帝国第一皇子のルインハルトは朝から浮足立っていた。 剣術の師から、初めて型を最後まで一人で通すことを許された日だったからだ。 七歳のルインハルトにとって、剣術は決して好きなものではなかった。 少しでも足の運びを誤れば、師から容赦なくやり直しを命じられる。 木剣は重く、何度も同じ型を繰りした所為で手にはマメができ、潰れてはひどい痛みを生じる。 それでも根が真面目なルインハルトは、好きではないからといって手を抜いたりはしなかった。 師が頷くまで、否、頷いてもなお自身が納得いかなければ何度も何度も同じ型を繰り返し、一切の妥協を許さなかった。 「では、始めましょう」 師が木剣を構え、ルインハルトもそれに倣った。 構え、背筋を伸ばし、一歩踏み込む。木剣を振り下ろし、受け、返す。 昨日までは、ここで足がもつれていた。 師に教えられた通り、軸足を意識する。身体の向きを変え、木剣を返す。 腕の筋肉が震え、額から流れ落ちた汗が目に入っても、ルインハルトは止まらなかった。 最後の一太刀を振り抜いて――静止する。 しん、と静まり返った稽古場に、荒い呼吸だけが響いた。 「……できた」 最後まで、完璧に。 思わず呟いたルインハルトに、剣術の師は確かな笑みをその表情に湛えて頷いた。 「殿下、お見事です」 その一言に、ルインハルトの顔がぱっと輝いた。 「本当か?」 「ええ。その御年で最後まで振り切るとは、本当にご立派です」 ルインハルトは一度だけ木剣を握る手を開き、自らの手のひらを見下ろした。 そうして、跳ねるように顔を上げる。 「もう一度、見てくれ。今度は今よりもっと上手くできるかもしれない」 一瞬だけ目を丸くした師が、ふっと笑って頷いた。 「よろしい。何度でもお付き合いいたしましょう」 「よろしく頼む」 ルインハルトは木剣を握り直した。 疲れなど、少しも気にならなかった。 ――父上に、お見せしたい。 その想いだけが、幼い胸を満たしていた。 もっと上手く、もっと綺麗に、もっともっと完璧に。 そうすればきっと、いつか父上は褒めてくださる。 「素晴らしいです、殿下。私の方から言うことはもう何もございません」 「これなら父上は、褒めてくださるだろうか」 師は一瞬声を詰まらせ、やがて深く頷いた。 「ご安心ください。殿下が本日どれほど頑張ったかは、私がしかと覚えております」 「……うん」 師に褒められるのは嬉しい。 それでも自分が最も見て欲しいと願うのは、父その人なのだ。 訓練場から、城の一室を仰ぐ。そこは、父の執務室だった。 人の影のない窓を、ルインハルトはしばらく見つめ続けていた。 ※ 夕刻、稽古を終えたルインハルトは、王妃の私室へと走った。 扉を開けるなり、中にいた母の元へ駆け寄る。 「母上!」 「ルインハルト。どうしたのです、そんなに慌てて」 「今日、剣の型を最後までできました!」 王妃は嬉しそうに微笑み、駆け寄ってきた息子の頭を優しく撫でた。 「まあ。それは素晴らしいわ」 「先生にも褒めていただきました。三回も!」 「そう。立派になったわね、ルインハルト」 皇子の母は、王と同じ髪色と瞳をした息子をしかとその腕に抱き、まだまだ小さな彼の背を、慈しむように撫で続けた。 「父上は、見てくださるでしょうか」 母の温もりに包まれながら、ぽつりと呟かれたその言葉に、王妃の手が一瞬だけ止まった。 だが、すぐにまた優しく背を撫でる。 「ええ。父上にも、お伝えしなくてはね。きっと、お喜びになることでしょう」 微笑んで告げる王妃の言葉を、ルインハルトは疑いもしなかった。 皇帝である父はいつも多忙で、たくさんの仕事を抱えている。 ――そう。父上は、忙しいのだ。 自分がもっと頑張って、もっと立派になれば、きっと父も自分を見てくれる。 そうしていつか父の傍らに立ち、支えることができたなら。 その日のために今できる努力は惜しむまいと、幼いルインハルトは心に誓っていた。 ※ 更けゆく夜の底で、宮殿は息を潜めていた。 晩餐を終えたルインハルトは、父帝が私室で書類に目を通している時間を見計らって、彼の元を訪れた。 手には、先ほどまで使っていた木剣がある。 「――父上、ルインハルトです。お時間よろしいでしょうか」 しばらくして、中から声が返った。 「入れ」 ルインハルトが扉を開けると、父帝は机に向かっていた。 机上には所狭しと広げられた書類と、幾本ものペンが並んでいる。 灯りを受ける金の髪は、自分と同じ彩をしていながら、もっと眩いものに見えた。 七歳のルインハルトにとって、父はいつだって大きな存在だった。 皇帝であり、帝国で最も尊く、強く、偉大な人。それが、自分が誰より憧れる父親という存在だった。 「何用だ、ルインハルト」 父の声は、低い。その前に立つだけで、いつだって肌がピリつき、空気が重くなるような圧がある。 鼓動が早まるのを感じながら、ルインハルトは口を開いた。 「今日、剣の型を、最後まで通せるようになりました」 父帝のペンを走らせる手は止まらず、紙上に落ちる視線も上がらない。 「父上に、見ていただきたくて」 そこでようやく、皇帝の手が止まった。 冷えた眼が、手元の紙上からゆっくりと眼前の息子へと移る。 幼い姿をしばらく見つめ、それから椅子の背に身体を預けた。 ペンを置く音が、空間に落ちる。 「――やってみせよ」 「はい!」 視線が交わり、ルインハルトの声が弾む。 急いで父の前に立ち、木剣を構え、呼吸を整えた。 ――父上、見ていてください。 父の視線がこの身に注がれていることを、気配で感じとる。 父が、自分を見てくれている。 それだけで、満たされるものがあった。 「始めます!」 師に教わった通り、踏み込みを間違えないように、剣先をぶらさないように。 いつもより素早く、より丁寧に、最も完璧な型を父の眼に映したいと、その一心で小さな身体は懸命に剣を振るった。 父の前で披露するのはやはり緊張したが、幾度も練習を重ねた通りに、一つ一つの動作を懸命に繋いでいく。 「――っ!」 やがて最後の一太刀を振り下ろし、ぴたりと静止する。 ルインハルトは息を弾ませながら構えを解き、父を見た。 「終わりました!いかがでしたか?」 父帝は、表情も、眸に宿る光もそのままに、何も言わずに息子を見ていた。 ルインハルトは、姿勢を正し、父の言葉を待った。 しかしなかなか口を開かない父に不安になって、おそるおそるその名を呼ぶ。 「――父上?」 父帝は、ほんの僅かに目を細めた。 「お前は」 さきほどと変わらぬ低い声が返ってきた。 「今の出来で満足なのか」 ルインハルトは、大きな碧眼をぱちりと瞬かせた。 「え……」 「満足なのかと聞いている」 「……い、いえ……」 その視線から逃れるように、思わず俯く。 木剣を握る手が、じっとりと汗ばんでいる。ひどく冷たい汗だった。 「では、どこが不満だ」 「……」 急に問われ、ルインハルトは言葉に詰まった。 自分では、よくできたと思っていた。 けれど父がそう尋ねるということは、きっと何かが足りないのだ。 先ほどの型を、脳内で繰り返す。 「……最後の……」 「最後の、何だ」 「……足の踏み込みが……」 「踏み込みがどうした」 「……っ」 ルインハルトは唇を噛んだ。木剣を握る手に、震えるほど力が篭る。 そして、意を決したように顔を上げた。 「……もう少し、強く踏み込むべきだったと……そう思います」 父帝は、しばし黙っていた。 やがて、 「……そうか」 それだけ言って、再びペンをとり、書類へと目を落とした。 静寂に包まれた室内に、ペンが紙を掻く音だけが響く。 ルインハルトは、その父の手元から視線を外せないでいた。 「――まだ他に何かあるのか」 「い、いえ!見てくださりありがとうございました!」 ルインハルトは木剣を胸に抱き、頭を下げた。 褒められたわけではない。 何かを教えてもらったわけでもない。 だが父は、自分の剣を見てくれた。 最後の踏み込みまで、眼を逸らさずに。 それ以上、何を望むというのか。 「……父上」 「何だ」 「次は、もっと上手にできます」 紙上に縫いつけられた父帝の視線は、上がらなかった。 「そうか」 「はい!」 今度の「そうか」は、先ほどより少しだけ嬉しかった。 ※ その夜、ルインハルトは寝台に寝転んでも、今日の日のことを考えていた。 胸の奥に、何か小さな引っかかりが生まれている。 けれど、それが何なのかは分からない。 何かがほんの少しだけ、物足りない。 「……次は、もっと」 誰に言うでもなく、小さく呟く。 それは悲壮な決意などではなかった。 次はもっと上手に、今日よりも速く、綺麗に、確実に。 難しい型も覚えよう。先生にはまだ早いと言われたが、頑張ればやれるはずだ。 そうすればきっと父は、もっと自分を見てくれる。もっと言葉をかけてくれる。もっと褒めてくれる。 静かに笑って、「よくやった」と、頭を撫でてくれる日が来るかもしれない。 ルインハルトはその光景を思い描き、布団の中で小さく笑った。 ただ父を愛する子供の、ささやかな願いがそこにはあった。 「――父上」 脳裏に父の姿を思い描き、瞼を閉じる。 あどけない少年の夢の中には、いつも父がいた。 皇帝として玉座に座る父。その隣に、自分が立っている。 その夢の中でなら、父はいつだって自分を見ていた。 「――――……」 父の唇が、何かを紡ぐ。 その言葉を聞いた夢の中の自分は、嬉しそうに笑っていた。 「……ちち、うえ……」 幼きルインハルトの寝顔は、どこまでも穏やかだった。 夜は深く、宮殿は静寂に沈んでいた。

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