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【番外編】Episode02『父上、愛してください』
十一歳になったルインハルトは、以前よりも多くのことを知るようになっていた。
自分には、二人の弟がいる。
一人は、九歳のノルヴィス。そしてもう一人は、七歳のヴィルヘルム。
ノルヴィスは王妃を母に持つ、自分と同じ立場の弟だった。
けれど、ヴィルヘルムは違う。亡くなった側室の子であり、母を持たない。
同じ父の血を分けた弟でありながら、二人はまるで違う場所に立っていた。
その違いを、ルインハルトは少しずつ理解し始めていた。
ノルヴィスは、お世辞にも出来の良い子供とは言えなかった。
剣術の稽古では集中力が続かず、学問の時間には窓の外ばかり眺めている。教師から注意されても、どこか懲りた様子がない。
「またノルヴィス殿下ですか」
教師が困り果てたように溜息をつくたび、ルインハルトは苦笑する。
「すみません。僕の方からもよく言い聞かせておきます」
「ルインハルト殿下は本当にご立派ですね」
ルインハルトは、ノルヴィスのことを放っておけなかった。
可愛い弟の面倒を見ることが、好きだった。
「兄上、この式の解き方が分かりません」
「――ここを、こう変えるんだ」
「どうして?」
「どうしてって……そういう決まりだからだ」
「誰が決めたのですか?」
「今はそれを考えるときではないだろう」
ノルヴィスの隣に座り、根気強く教えてやる。
何度説明しても分からないと首を捻る弟に、ルインハルトは呆れながらも、もう一度最初から教え直す。
「分かった!」
「本当に分かったのか?では、この問題を解いてみろ」
「うーん……」
「……ノルヴィス」
「やめた!勉強は終わりだ!遊びましょう兄上!」
「まったくお前は……」
思わず頭を抱えながらも、彼の前では自分はいつも笑っていた。
凡庸と称される弟の面倒をみればみるほど、周囲は自分のことを褒め称え、弟と比べては口を揃えて「優秀だ」と評した。
それは決して、嫌な感覚ではなかった。
「兄上は何でも知っていますね」
そう言ってノルヴィスが屈託なく笑うと、胸の奥が僅かにくすぐったくなる。
――そうだ。自分は兄なのだ。弟の手本となるのもまた、兄の務めだ。
だが、ヴィルヘルムに対しては、どうしても勝手が違った。
※
「――できました」
七歳のヴィルヘルムが、静かにそう告げたのは、剣術の稽古場でのことだった。
ルインハルトは、思わず目を疑った。
「もう一度、見せてみろ」
「はい」
素直に頷いたヴィルヘルムが、構えを取り、呼吸を整え、剣を振るった。
その足運びにも、剣筋にも、大きな乱れはない。
かつて自分もまた七歳の頃、何日も何日も繰り返して、ようやく最後まで通した型だった。
それをヴィルヘルムは、たった数日で。
「……上出来だ」
口から出た言葉は、それだけだった。
ヴィルヘルムは小さく頭を下げる。
「ありがとうございます、兄上」
その顔には、誇らしげな色も、喜びもない。
ただ、できたことをできたと告げる、淡々とした表情がそこにはあった。
それが、妙に癪に障った。
彼には何一つ、無礼なところはない。声も穏やかで、態度も礼儀正しい。
なのに何故か、自分をどうしようもなく苛立たせる。
――なぜ、こいつはいつも、こんなに落ち着いているんだ。
年下のくせに。母もいないくせに。宮廷でも肩身の狭い立場で、何もかもが自分より劣っているはずなのに。
「兄上?」
「……何でもない」
ルインハルトは、顔を背けた。
自分だって、同じ年頃にはできた――そう、思おうとする。
けれど、それだけではなかった。
ヴィルヘルムは剣だけではなく、学問でも、教師から褒められることが多かった。
覚えるのが早い。一度覚えたことを忘れることも少ない。
礼儀作法も申し分なく、人前で感情を乱すこともない。
年齢に似合わぬほど静かな彼は、父の前でも同様だった。
「ヴィルヘルム。先日の歴史書についてだが」
「はい、父上」
父の呼びかけに、ヴィルヘルムが顔を上げる。
父帝が、ヴィルヘルムに言葉を掛けている――ただそれだけのことだった。
ルインハルトは、無意識にその様子を見つめていた。
父はヴィルヘルムに問いを投げ、ヴィルヘルムはそれに答える。
「そうか」
父が頷く。褒めたわけではなく、笑ったわけでもない。
ただ一言、父はそれだけを返す。
それでも――。
父が、ヴィルヘルムを見ている。
その事実が、胸の奥に小さな棘のように刺さった。
――自分だって。
自分だって、父に見てほしい。物心ついたときから、ずっと。
けれど自分はもう、その願いを口にできるほど幼くはない。
十一歳にもなれば、「父に褒めてもらいたい」などという子供じみた願いをいつまでも抱えていることは、恥ずべきことだった。
大丈夫だ。何も心配することはない。
自分は第一皇子なのだから、もっと優秀になればいい。
もっと父の役に立てるように、努力し続ければいい。
そうすればいつの日か、父は自分を見てくれる。
けれど父の隣にいるヴィルヘルムを見るたびに、自分がこれまで必死の努力で築き上げてきた自信が、足元から崩れていくような感覚に捉われるのだ。
※
そんな折、父帝の私室で事件は起きた。
そこには、大陸の彼方から取り寄せたという硝子細工のワイングラスが飾られていた。
ルインハルトも、それが父の大切にしている品であることは知っていた。
それは、ほんの些細な不注意だった。
書棚から本を取ろうとした際、別の本を棚の上へ戻そうとして――肘が、硝子の脚に触れた。
――パリン
硝子は床へ落ち、粉々に砕け散った。
「――あ……」
ルインハルトの顔から、血の気が引いた。
床に散らばった無数の破片を見つめる。
心臓が、どくん、と大きく鳴った。
――父上の。
頭の中が真っ白になる。
どうしよう――どうすれば。
謝ろう、今すぐに。自分が割ったと、正直に。
父は、怒るだろうか。失望するだろうか。
どんな目で、私を見るだろうか。
破片を見下ろしたまま立ち竦んでいた、そのときだった。
「――何事です」
扉の向こうから侍従の声がして、ルインハルトは息を呑んだ。
それとほぼ同時に。
「兄上?」
廊下から、ヴィルヘルムの声が聞こえた。
ルインハルトが振り返ると、ヴィルヘルムが扉のところに立っていた。
「どうかされ――」
言葉を途切れさせたヴィルヘルムの視線が、床に散らばる硝子片へ落ちた。
次いで、その漆黒の瞳がルインハルトを見た。
ほんの一瞬、目が合った。
その一瞬の後、ルインハルトは口を開いていた。
「――ヴィルヘルムが」
自分でも、何を言ったのか分からなかった。
ヴィルヘルムの瞳が、大きく見開かれた。
侍従がヴィルヘルムを見る。
「……」
喉が、ひどく乾いた。指先が、震える。
――言わなければ。
違う、と。私がやったのだ、と。
けれど、次の瞬間。
「……申し訳、ありません」
ヴィルヘルムは、言い返してくることも、文句を言ってくることもなく、静かに頭を垂れた。
ルインハルトは、目を見開いた。
「ヴィルヘルム殿下。陛下の大切な品です。今後、このようなことのないように」
「はい」
「破片はこちらで片付けます。お怪我はありませんか」
「ありません」
侍従はそれ以上を問い質(ただ)さなかった。
やがて侍従の足音が遠ざかり、その場には静寂が戻った。
ルインハルトとヴィルヘルムだけが残される。
「…………」
何も言えなかった。
ヴィルヘルムもまた何も言わず、ただ床に散らばった硝子を見つめている。
やがて、ルインハルトは恐る恐る弟を見た。
顔を上げたヴィルヘルムも、ルインハルトを見た。
その目に浮かんでいたのは、怒りでも、非難でもなかった。
いつもの彼と同じ、静かな色。けれどその奥に揺らぐのは、ひどく寂しげで、悲しげな――信じている者に、縋るように伸ばした手を振り払われたときのような、そんな目だった。
「……」
ルインハルトの胸が、締めつけられる。
――何だ、その目は。
まるで自分が、何かをしてやれる人間であるかのように。
兄なのだから助けてくれると、信じているかのように。
その視線に耐えられなくなり、ルインハルトは逃げるようにその場を去った。
自分は何故、あんなことを言ってしまったのか。
父が怖かった。怒られたくなかった。失望されたくなかった。
勿論それもある。
だがそれとは別に、自分はヴィルヘルムに負けたくなかったのだ。
自分より優秀で、冷静で。
しかし自分とは違い、父の視線を気にしているようには見えない弟。
そんな彼に、これ以上父の目を向けたくはなかった。
――なぜあいつは、あんな目で私を見る。
きっとヴィルヘルムは父上に報告するだろう。
自分はやっていないと。兄に罪を着せられたと。
それならそれでいい。いや、むしろそうであって欲しいと願った。
自分を責め、怒ってくれたなら。
そのときになれば、自分だって謝れるかもしれない。
だが結局、弟は終ぞ、このことを誰かに話すことはなかった。
※
ルインハルトは生まれて初めて、具合が悪いと言って部屋に引きこもった。
自分は、弟たちの手本にならなければならない。
いつか父の隣に立つ人間になるのだから。
そんな自分が、弟に罪を押しつけた。
自分で自分が、信じられなかった。
あのとき自分に向けられた目が、脳裏に焼き付いて離れない。
まるで、父の愛を求め続ける自分を、憐れんでいるような。
「……父上」
寝台の上で身を丸め、シーツに包まっていた。
幼い頃なら、母に抱かれながら言えた。
父に褒めてもらいたい。父に見てほしい。父の隣に立ちたい。
けれど今はもう、母に甘えていい歳ではない。
弟が二人いる。
父に叱られる弟と、自分より優秀な弟。
その二人ともが、自分より父の目を引いていた。
自分は父にとって、決して特別な存在などではないのだ。
もっと頑張らなければ。もっと優秀にならなければ。もっと父の役に立たなければ。
そうでなければ――
「……父上」
胸の奥が、きゅう、と痛んだ。
母は、自分を愛してくれている。教師たちも、自分を褒めてくれる。ノルヴィスも、自分を慕ってくれている。
けれどどうしても、最も欲しいものだけが、手に入らない。
ルインハルトは、手繰り寄せたシーツをぎゅっと握った。
「……愛して、ください」
誰の耳にも届かない、囁くような声音だった。
言葉にした瞬間、込み上げたものが溢れそうになって、さらに身を小さく丸めた。
ただ一度でいい。
――愛している、と。
そう言って欲しかった。
そっと顔を覗かせて、窓の外へと視線を向けた。
そこには、月の姿も星の姿も見えなかった。
低い雲が夜空の一面を覆い、闇の帳が包む中で、宮殿は沈むように眠っている。
父ももう、眠っているだろうか。
愛されたいと願うことと、愛されるために誰かを傷つけること。
その二つの境界が、いつか自分の中で曖昧になっていくことを――このときはまだ知らなかった。
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