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【番外編】Episode03『父上、認めてください』
十五歳になったルインハルトは、あのグラスの一件以来、ヴィルヘルムに対して、努めて優しく接するようになっていた。
書庫で行き会えば、必要な書を先に譲る。困っていれば、聞かれずとも助言をする。表面上は、これ以上ないほど、良き兄であろうとした。
それが、あの日の償いのつもりだった。
「ヴィルヘルム。近頃はどうだ?」
「特にこれといって、変わりありません」
「そうか。困っていることがあれば教えて欲しい。力になろう」
「ありがとうございます。ですが、大丈夫です」
心の奥底では分かっていた。あの日、自分が失ったものは、もう戻らない。
ヴィルヘルムがどれほど礼儀正しく自分に接しようと、あの日以前にはあったもの――兄に対する無邪気な信頼のようなものは、二度と取り戻せない。
優しくすればするほど、二度と昔のような関係には戻れないのだということを、ヴィルヘルムの何にも期待していないかのような、ひどく冷めた目を見るたびに、突きつけられるようだった。
※
その年、北方の属領で小規模な叛乱が起きた。徴税を巡る不満が、地方領主の扇動と結びついた末のことだった。
「――ルインハルト。お前に、鎮圧の指揮を任せる」
父帝の一言に、ルインハルトは深く頭を垂れた。
「――かしこまりました」
胸の内には、緊張よりもむしろ静かな高揚があった。
この機を、逃してはならない。
ルインハルトは出兵に先立ち、叛乱の原因を徹底的に洗い出した。
徴税の不備、地方領主の私腹、民の不満の実情。武力による鎮圧だけでなく、叛乱の芽そのものを摘み取る策を組み立てた。
現地に赴いてからの采配は、迅速だった。
首謀者を的確に見極め、扇動された民草には慈悲を、扇動した者には容赦のない処断を。
そして、叛乱の原因となった徴税制度そのものを是正する取り決めを、その場で結んでみせた。
「――第一皇子殿下は、まだ十五とは思えぬ手腕だ」
「これほど短期間で、しかも禍根を残さぬ形で収めるとは」
同行した将官たちの間から、そんな声が漏れ聞こえた。
だが、ルインハルトの耳には、それらの称賛が驚くほど遠く響いた。
――これで、父上は。
その一心だけが、彼を動かしていた。
※
帰還したルインハルトは、その日のうちに詳細な報告書をまとめた。
完成した報告書を持って、父上の元へ急いでいる際に、廊下で母上と擦れ違った。
「おかえりなさい。素晴らしい手腕だと聞きましたよ。よくやりましたね」
「ありがとうございます、母上」
一瞬だけ、視線が遠くを見た。
「父上は……」
そこまで言って、ルインハルトは口を閉ざした。
「……どうしました?」
「いえ。何でもありません」
母はじっと、自分の顔を見つめてくる。
それは息子を深く慮る、慈愛に満ちた視線だとルインハルトも理解していた。
この温もりの欠片でも、父の眼差しにあったなら。
「ルインハルト」
「はい」
「あなたは、十分によくやっていますよ」
「……ありがとうございます、母上」
ルインハルトは、完璧な笑顔で微笑んでみせた。
それを見つめる母の瞳が寂しそうに揺れたことに、ルインハルトは気づかなかった。
ルインハルトは王妃に対し一礼すると、父の元へと足を急がせた。
手にあるのは、一切の無駄を排した手本のような報告書だった。
叛乱の原因、鎮圧の経過、処断の内容、そして再発を防ぐための施策。数字も、論拠も、一つの矛盾もなく組み立てられている。
「――父上。北方属領の一件、鎮圧いたしました」
父帝は、差し出された報告書に一瞥をくれた。ページを繰る手は、驚くほど速かった。
ルインハルトは父の反応を、固唾を呑んで待った。
父帝は、報告書を机に置いた。乾いた紙の音が、静寂に落ちる。
「悪くはない」
その一言を聞いた瞬間、ルインハルトの胸に、小さな熱が灯った。
――悪くはない。
父が、自分の仕事を認めたくださった。
「――ありがとうございます」
そう思いかけた。
「だが」
その熱は、次の言葉とともに打ち消された。
父帝の視線が、ようやくルインハルトへと向く。
「お前ともあろう者が、この程度の叛乱一つにこれほどの時間をかけたのか」
その言葉に、ルインハルトは息を呑んだ。
「……そ、れは……」
「言い訳は聞かん」
「――申し訳、ございません」
声が震えた。視界が揺らぎ、身体が傾きそうな錯覚に陥って、足に力を込めて踏み止まった。
「お前は、何だ」
「――何だ、とは……質問の、意味が」
「お前は何処の誰だと聞いている」
冷えていく指先を、ぎゅっと握り込む。耳鳴りがして、父の声が遠く聞こえた。
「――グランシュタット帝国の、第一皇子……ルインハルト=ジス=グランシュタットです」
「ならば次は、もっと早く収めよ」
言い終えるが早いか、父帝の視線は、既に別の書類へと移っていた。
ルインハルトは、その場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
全身から冷たい汗が吹き出し、凍りついたように冷えていく悪寒のような感覚に、ただ身を震わせることしかできなかった。
「用が済んだのなら下がれ」
「――はい。失礼いたします」
やっとの思いでそれだけを返す。
その後どうやって私室に戻ったのか、覚えていなかった。
※
よく晴れたある日の午後。
廊下を歩んでいたルインハルトは、ふと足を止めた。
中庭の一角。木陰で父帝が、幼いヴィルヘルムに何事か話しかけている姿が見えた。
何を話しているのかは聞こえなかった。だが、会話の中で、父の唇が「そうか」と紡ぐのだけは分かった。
それはいつもと同じ、短い一言だった。
だが、いつもとは違ったのは、父帝の口元に、僅かな――本当に、僅かな笑みのようなものが浮かんでいるように見えたことだ。
途端、目の前の色彩のすべてが失われた。
晴れ渡った蒼穹も、風に揺れる木々の緑も、すべてが白と黒の世界としてその眼には映った。
ルインハルトは二人が対話するその光景を、しばらく動けずに見つめていた。
――なぜだ。
自分は、命がけで叛乱を鎮圧し、完璧な報告を持ち帰った。それでも、父から向けられたのは「もっと早く」という叱責だけだった。
幼い弟が何を言ったのかは知らないが、父の口元にはあの微かな笑みが浮かんでいた。
――私が求めて止まないものを、あの子はこんなにも容易く得られるのか。
冷たいものが、胸の奥を這い上がってきた。
自分の呼吸の音だけが、ひどく耳障りに鼓膜を震わせていた。
その日ルインハルトは、自室に戻ってからも、長い間机の前に座ったまま動けずにいた。
椅子の背に深く凭れ、四肢を投げ出し、ぼんやりと天井を仰いでいた。
――父上が求めているのは。
ようやく、一つの答えに行き着いた気がした。
――「息子としての私」ではない。「役に立つ駒としての私」だ。
その気づきは、深く、静かに、彼の中に沈んでいった。
だが、落ち込んだりはしない。胸に生まれるのは、新たな覚悟だった。
――父の目に留まるには、完璧な駒であり続ける以外に道はない。
感情を求めることは、もうやめよう。愛されることを望むのは、終わりにしよう。
自分は、父にとっての駒なのだ。ならばせめて優秀で、父の望む完璧な駒であろう。
その日を境に、ルインハルトの中で、何かが静かに形を変え始めた。
※
十六歳になる頃には、ルインハルトの背丈は、大人のそれに近づいていた。
声も低くなり、幼さの残っていた輪郭は、次第に鋭さを帯びていった。
鏡を見るたび、そこに映る自分の顔が、父の面影に近づいていくのが分かった。
金の髪。碧の瞳。整い過ぎるほど整った、感情の読めない相貌。
――父上に、似ている。
その事実に、ルインハルトは、歪んだ悦(よろこ)びを覚えている自分に気づいた。
それは、決して健やかな感情ではなかった。だが、他に縋るものが、もう見当たらなかった。
どれほど疲弊していても、人前では背筋を伸ばす。どれほど傷ついても、完璧な笑みを絶やさない。
そうして少しずつ、ルインハルトは感情を表に出すことをやめていった。
痛みも、寂しさも、失望も。それらすべてを笑顔の下に、丁寧に押し込めていく。
そうすることでしか、父の築き上げた盤上で自分の価値を保つ術はないのだと、十六歳のルインハルトは既に悟っていた。
「次は、もっと完璧にやってみせます。――ですからどうか」
誰もいない私室で、鏡に向かって、呟く。
「どうか、認めてください。父上」
鏡に映し出された姿を、指先でゆっくりとなぞる。
そこには、感情を完全に押し殺した、うつくしい笑みが映し出されていた。
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