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【番外編】Episode04『父上、あなたが憎い』

十八歳になったルインハルトは、既に、父帝の「右腕」と呼ばれるまでになっていた。 政務における判断は的確で、外交の場では一切の隙を見せない。誰もが、次代の皇帝に相応しい器だと、口を揃えて評した。 若き将官たちは彼に憧れ、文官たちはその才覚に舌を巻く。 誰もが彼の未来を疑わなかった。ただ一人――父帝だけを除いては。 宮廷では奇妙な出来事が続いていた。 ルインハルトが纏め上げた政策の功績が、いつの間にか、ノルヴィスの手柄として喧伝される。 外交の場では、ルインハルトが慎重に進めていた交渉に、突然ヴィルヘルムが「学びのため」という名目で同席を命じられるということもあった。 廷臣たちは皆、陛下は弟君方にも機会を与えておられる、兄弟で競わせそれぞれを伸ばすおつもりなのだろう、などと噂した。 帝王とは、公平でなければならない。それが息子相手であってもだ。 父は国のため、皇子たち全員を鍛えるために、平等に機会を与えているだけなのだと、ルインハルトもそう思うように努めていた。 そう、信じたかった。 だが、胸の奥で燻ぶる違和感を無視できない。あまりに不自然だと、何かがしきりに訴えてくる。 ――父上は、何を見ておられる。 疑念は、日に日に膨らんでいった。 ※ その夜、ルインハルトは、父帝の私室に近い回廊を歩いていた。 遅い時刻ではあったが、急ぎの決裁を求めるために父の私室へと急いだ。 北方交易路の再編案。 民にも帝国にも利益をもたらすそれは、叛乱以降、自ら温め続けてきた政策だった。 これならば父も評価してくれるはずだと、期待を抱いて先を急ぐ。 「……今なら、お時間をいただけるだろうか」 夜更けの回廊は静かだった。 灯火だけが長い影を落としている。 扉へ手を伸ばそうとしたその瞬間、中から父帝の声が聞こえた。 「――ルインハルトが、どこまで耐えるか」 思わず手が止まる。父帝の声だった。話の相手は、側近の一人らしい。 「あれは、よく出来た駒だ。功績を横取りされても、決して崩れぬ。弟に先を越されても笑っている。だが腹の底では、さぞ煮えくり返っているだろうよ」 側近の、追従じみた笑い声が続いた。 「追い詰められた者が、どんな顔をするか。それを見るのが、私は好きでな」 「――陛下は、実にお人が悪い」 「退屈な玉座にあって、これくらいの慰みがなければ、やっていられぬというだけのことだ」 ルインハルトは、その場に、凍りついたように立ち尽くしていた。 ――慰み。 その一語の意味を、理解するまでに数拍を要した。 ノルヴィスとの手柄争い。ヴィルヘルムとの理不尽な比較。 それらすべてが、父にとっては、ただ息子たちを苦しめて楽しむための、見世物だったのか。 「――兄弟同士、争い合う様は、実に見応えがある」 父帝の声が、続いた。 「特にルインハルトだ。あれほど完璧を装いながら、内心では弟たちを妬み、そして同時に私の愛を求め続けている。あの矛盾を抱えた顔が、堪らなく滑稽でな」 頭の中が、真っ白になった。 いつか認めてもらえると信じ、惜しまなかった努力も、積み上げてきた功績も。 それらすべてが、最初から何の意味も持たなかったということか。 「飢えた犬を想像してみよ。飢えれば飢えるほど、餌を求めてよく走る。褒美を与えてしまえば、満足してその足は鈍る。分かるか。より走らせるには、飢えさせ続けることだ」 側近の乾いた笑い声がした。 「陛下は教育がお上手ですな」 「教育か」 父帝が、鼻で嘲笑(わら)う。 「そんな大層なものではない。ただの退屈しのぎよ」 世界から、音が消えた。 扉に添えた指先は冷え、おかしなくらいに震えていた。 息を吸って、吐く。当たり前のように繰り返してきたその動作すら、やり方が分からなくなる。 父の言葉だけが、頭の中で繰り返される。 慰み。滑稽。退屈しのぎ。 眠る時間を削ってまで積み重ねてきた血の滲むような努力は、一体何のためだったのか。 父に見て欲しくて、愛されたくて、認めてもらいたくて――必死に足掻き続けてきたことを、すべて父は知っていた。 知った上で、自分が苦しむ姿を見て、嗤っていたのだ。 そこに、息子を育てようという意思など、ひと欠片も存在しなかった。 ルインハルトの中で、父という存在を支えていた最後の幻想が、音を立てて砕けた。 愛される未来を信じていた少年が、その瞬間、静かに息絶えた。 扉を開けることなく、音もなく踵を返した。 途中、廊下で擦れ違う侍女が頭を下げた。 自ずと浮かんだ笑みは、完璧だった。 貼りついた笑みは、剥がれなかった。 自室に戻り、扉を閉めた瞬間。 ルインハルトは考えるよりも先に、拳を鏡に叩きつけていた。 ――ガシャン!! けたたましい音を立てて、鏡が砕け散る。 鋭い破片が、拳に、腕に、幾筋もの傷を作った。 白い袖に、赤い染みが広がっていく。 だが、痛みだけが来なかった。 「……父上」 その名を呼ぶ声は、ひどく掠れていた。 初めて、その名を呼ぶことが苦しかった。 あなたに愛されたかった。 あなたの役に立ちたかった。 あなたの誇りになりたかった。 ――それだけだった。なのに、あなたは。 激しい怒りが、腹の底から込み上げてくる。 膝を折り、床に散らばる砕けた鏡を、血に塗れた手で一枚だけ拾い上げる。 そこには、笑顔の自分が映っていた。 砕いたはずの破片はしかし、すべての欠片に笑顔だけを映していた。 この笑顔は父が作った、帝国最高の仮面だった。 ゆっくりと立ち上がる。 白い腕から滴った血が、床を赤く染めていく。 「父上」 かつて、あれほど焦がれ、あれほど求め続けたその名は、憎しみの象徴となった。 それでも自分は、ここでしか生きられない。 父の創った盤上でしか、生きる術を知らないのだ。 「――私は、あなたが憎い」 愛と憎しみが、同じ場所から、同じ温度で生まれていることに、ルインハルトはようやく気がついた。 「……見ていろ」 鏡の欠片に映る自分と、視線が合う。 昨日までそこに映っていたのは、父に認められたいと願う皇子だった。 今、そこにいたのは―― 「貴方の生んだ、最高の駒が」 昏い双眸が、ゆっくりと細められる。 「いつか、その喉元を、食いちぎる」 手の破片を、きつく握り締める。 鋭い断片が皮膚を裂き、新たに溢れ出る血が、小さな音を立てて次々に床へと滴った。 それでも、痛みは感じなかった。 「その日を、楽しみにしていてください」 痛みも、怒りも、絶望も。 そのすべてを内側に押し込めた表情には、これまでと同じ完璧な笑みだけが浮かんでいた。 窓の外に、月の姿はない。 底知れぬ深淵に沈んだ宮殿は、息を潜めるように静まり返っていた。 その静寂だけが、砕け散った心の残響を知っているようだった。 この夜。 父を失った皇子は、簒奪者へと生まれ変わった。

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