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【番外編】Episode05『父上、私はあなたのようになりたくはない』【R18】

二十二歳になったルインハルトは、父帝から南方の一州、ザナンドの統治を任されていた。 長年の圧政と、それに伴う小規模な反乱の火種を抱えた土地だった。 父帝ならば、力で押さえつけるだろう。だが、ルインハルトは違う道を選んだ。 「――恐怖で支配するのではなく、秩序で治めたいと思う」 現地に赴き、圧政の原因となっていた徴税制度を見直し、法に基づいた公正な統治を敷いた。 不正を働く官吏は罷免し、正直に働く者は取り立てる。その采配は、驚くほどの速さで州の混乱を鎮めていった。 「殿下は、真に民のことを考えておられますね」 そう言って目を輝かせたのが、ザナンドの若い文官――アナンという青年だった。 アナンは有能で、周囲への気配りができ、かといって主張し過ぎることのないどちらかと言えば控えめな青年だった。 歳はルインハルトの僅かばかり下で、線は細いものの、南方らしく少し日に焼けたはちみつ色の肌をしていた。 決して派手な顔立ちではないが、その性格をそのまま物語っているかのような落ち着いた面差しから、ルインハルトは眼を逸らせなかった。 「殿下のような御方にお仕えできることを、誇りに思います」 真っ直ぐな瞳だった。 そこには、宮廷で見慣れた打算や媚びの色が一つもない。 ルインハルトは、その純粋な眼差しにいつしか惹かれていった。 「私は、父上のような統治はしない」 ある夜二人きりになった折、ルインハルトは彼にそう告げた。 「恐怖でも、娯楽のためでもなく、正しさでこの国を治めてみせる」 「――私は、その未来を信じております」 アナンは跪き、ルインハルトの手を取った。 「殿下のためなら、この命も惜しくはございません」 偽りなき真っ直ぐな眼差しに、ルインハルトの胸の奥が、久しく感じたことのない温かさで満たされた。 これまで誰にも見せることのなかった素顔を、ルインハルトはアナンの前でだけ、少しずつ見せるようになっていった。 「――アナン」 灯りを落とした私室で、ルインハルトはその名を呼んだ。 「今宵だけは、殿下と呼ばずとも良い」 「――ルイン、ハルト様」 躊躇いがちに紡がれたその名に、ルインハルトは静かに笑んだ。 腕を伸ばし、その身体をそっと引き寄せる。 「私は、あの男のようにはならない」 彼の耳元で囁くように、そう告げた。 「恐怖でしか人を従わせられない、あの男とは違う」 「――はい」 アナンは頷きながら、ルインハルトの背に腕を回した。 「だが……私にも、あの男の血が流れている」 声が、震えた。 「……怖いのだ、父が。抗えない、この血が」 それは、今までただの一度も口にしたことがない本音であり、弱音だった。 弱みを見せることの決して許されない立場にありながら、アナンの前でだけはなぜか、それを曝け出してしまう自分がいた。 後ろに回された手が、ゆっくりと背を撫でる。 幼子を宥めるように、あるいは慰めるように。 「殿下は、殿下だけの道を歩んでおられます。その道はきっと、明るい未来に繋がっていると……私は信じております」 「……っ……アナン……」 触れ合う肌の温度に、これまで誰にも見せたことのなかった固い結び目が、ゆるりと綻んでいくようだった。 アナンの指先がルインハルトの背をなぞるたび、積み重なってきた孤独という名の傷痕が、少しずつ癒されていくのを感じていた。 二人がそうした関係になるのは、自然の流れだった。 執務を終えたあと、ルインハルトは初めてアナンを寝台に組み敷いた。 アナンも抗うことをせず、大人しくその身を委ねてくれた。 「……あっ」 足元に蹲り、後ろへと這わされたルインハルトの舌先の動きに、アナンは身を震わせた。 慌てたように、寝台から上肢を起こしかける。 「……っ……いけません。殿下ともあろうお方がそんな……!」 「何故いけないことがある。解さねばつらいだろう」 当たり前のように言ってのけるルインハルトを、アナンの潤んだ瞳が見つめる。 再び力なくベッドに沈んだ身を労わるように、ルインハルトは優しく舌と指で愛撫した。 「ん……っ」 熱を帯びた吐息の合間に、微かな声が漏れる。 狭い隘路に沈めた指で内壁を擦り上げたなら、アナンは息を詰め、小さく眉根を寄せた。 「……初めてか」 「……は、い」 蕩けた眼差しに、僅かばかり苦痛の色が混じる。 ルインハルトは指を引き抜き、ふと微笑んだ。 「ならば今日はここまでにしておこう」 「っ、いえ!私なら大丈夫です。殿下の御心のままに……!」 「私がそうしたいのだ。お前につらい思いはさせたくない」 「……ルインハルト様……」 ルインハルトはアナンの隣に身を横たえ、その身体を抱き寄せる。 自身よりもひとまわり小さく細い身体は、その腕の中に容易に収まった。 「その代わり、毎日だ。明日もこうして肌を重ねたい。……良いだろうか」 窺うようにアナンを覗き込んだなら、その濡れた瞳が暗がりの中で煌めいた。 深海に揺らぐ黒真珠のような瞳は、今まで目にしたどんな高価な宝石よりも、美しい輝きを放っていた。 「――はい。勿論です」 今にも泣き出しそうな微笑に、ルインハルトは初めての胸の痛みを覚えた。 きゅっと締め付けられるようなそれは、切ないながらも、決して嫌なものではなかった。 「……アナン」 「――ルインハルト様」 どちらともなく、唇を重ね合う。 全身に過らせた手で、指で、唇で、互いの熱を昂らせ、そうして慰め合った。 何度もその名を呼び合いながら、二人は夜が更けるまで、肌を合わせ続けた。 それは単なる欲の発露ではなく、ルインハルトにとって、これまで誰にも預けたことのない、心の柔らかい部分を差し出す行為だった。 幾日も重ね、ようやくアナンとひとつになれたとき、全身が悦びに打ち震え、繋がった場所から融けてしまうような錯覚に陥った。 融けてしまってもいい。二人を隔てる境界など棄てて、この身のすべてを溶かし尽くし、彼と混ざり合えたなら。 そんな熾烈で痛切な欲求が、腹の底から湧き上がってくる。 その行為自体は決して初めてではなかったが、これまでのものとはまるで違う、魂から震えるような陶酔だった。 「私が正しく在ることができるのは、お前のおかげだ」 事の後、汗ばむアナンをその腕に抱きながら、ルインハルトは静かに呟いた。 「お前といると、父のようにならずに済む気がする」 アナンはそっと、ルインハルトの胸に頬を寄せていた。 鼓動の音を確かめるように、逞しい胸板に擦り寄っている。 その温もりだけが、この頃のルインハルトにとって、唯一の救いだった。 「私のおかげだなどと……私には、勿体ないお言葉です……」 胸元で恍惚と微笑むアナンを、ルインハルトは掻き抱くように、その腕(かいな)で強く囲った。 互いの呼吸と鼓動だけを感じ合うような沈黙を経たあと、やがて微かな寝息を立て始めた彼の髪を、ルインハルトは指で梳き続けた。 指に絡まる細く柔らかな感触は、ずっとそうしていたいほどに心地良かった。 ルインハルトはその安心しきったような寝顔を見つめ、ふと笑みを零した。 つくりものではない笑みをまだ浮かべることができているということに、何より自分自身が驚いていた。 「……私にも、守りたいものが出来た」 耳に届いた自らの声音は、いつから失っていたのかも思い出せないほど、穏やかなものだった。 ※ だが、その平穏は長くは続かなかった。 半年後、アナンに謀反の疑いがかけられた。 「――属領の残党と、密かに通じていたという証拠が見つかりました」 報告を受けたルインハルトは、耳を疑った。 「――馬鹿な。アナンが、そんなことをするはずがない」 「証拠は、確かなもののようです。書簡のやり取り、金銭の授受の記録――」 「捏造だ!」 ルインハルトは、声を荒げた。 「誰かが仕組んだに違いない……!」 最初はアナンを僻む者の嫌がらせだと思っていた。 だが、それにしては証拠はあまりにも周到に積み上げられていた。 ルインハルトがどれほど弁護しようとも、最後まで覆すことはできなかった。 「――ルインハルト」 処刑の場に、父帝が姿を現した。 「甘い理想の代償が、これだ」 冷ややかな声だった。 「お前が、恐怖ではなく秩序で人が動くと信じたがゆえに、この男を守り切れなかった」 「――父上……」 「この男は、お前を信じた。力なき者のくだらぬ理想を信じたばかりに、命を落とすことになったのだ」 父帝は、嘲笑っていた。 「お前がこの男に夢を語ったのだろう。くだらぬ理想を語り、期待させたのだろう。叶う筈もない未来を夢見ながら、この男は死んでいく」 「父上……貴方はどこまで……!」 「――殿下」 激昂し、父帝に掴みかからんばかりだったルインハルトは、声の方を跳ねるように見た。 処刑台の上、アナンが、ルインハルトを見ていた。 恐怖ではなく、どこまでも静かな、澄んだ眼差しだった。 「――ルインハルト様」 その声は、震えていなかった。 「私は、後悔しておりません。殿下の理想を、最後まで信じていられたことを、誇りに思います」 「――アナン……!」 「どうか、お忘れにならないでください」 アナンの双眸が、穏やかに細められた。 「あなたの正しさは、決して、間違いではなかった」 刃が振り下ろされる、その直前。 「どうか……私の死で、理想まで殺さないでください」 「待っ――……!!」 刹那、視界のすべてが、赤に染まった。 茫然と立ち尽くすルインハルトに、父帝は言った。 「お前が殺したのだ。ルインハルト」 その言葉は、ルインハルトの中に、永劫に刻まれる呪詛となった。 ※ その日を境に、ルインハルトは私室に籠り、誰とも口を利かなくなった。 ――なぜだ。なぜ正しさは、これほど容易く踏みにじられる。 問いに、答えは出なかった。ただ胸の奥に、果ての見えない虚無だけが広がっていく。 父を、憎んでいる。父のようにはなりたくないと、あれほど誓った。 だが、その理想を貫いた結果が、これだった。大切な者を、守り切れなかった。 ――父のやり方でしか、父を倒すことはできないのか。 その考えが、初めて頭の中に浮かんだ。 悍(おぞ)ましい考えだった。だが、一度浮かんだその考えは、二度と消えることはなかった。 ルインハルトは、アナンの遺した書き付けを静かに手に取った。 それは、かつて二人で描いた、理想の統治についての覚書きだった。 丁寧な文字で綴られたそれは、もう二度と実現することの叶わぬであろう、明るい未来の設計図だった。 窓の外、月のない夜が、静かに更けていく。 ――父上。私はあなたのようになりたくはない。 だが。 理想では、守れなかった。 正しさでは、届かなかった。 優しさでは、生き残れなかった。 ならばもう、父を否定することはしない。 理想も、正しさも、優しさも、愛した男の亡骸とともに、この夜に置き去りにしよう。 ――すべては、父を超えるために。 それが、絶望へと続く道であると分かっていた。 分かっていながらもルインハルトは、この夜、血塗られたその道へと一歩を踏み出した。 ――その道はきっと、明るい未来に繋がっていると……私は信じております。 そう言ったアナンの声を、ルインハルトはもう思い出せなかった。

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