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【番外編】Episode06『父上、許してください』

その夜、宮殿はいつもと変わらぬ静けさに包まれていた。 密偵機関は既に、完全にルインハルトの手の内にあった。 証拠の捏造、情報の統制、忠誠を誓う者の選別――すべての準備は、幾月もかけて、周到に整えられていた。 父帝の私室へ続く回廊を歩きながら、ルインハルトは、自分の足音が驚くほど落ち着いていることに気づいていた。 ひと際豪壮な扉の前で、その足を止める。 かつてこの扉の前で、幾度も緊張に喉を渇かせていた少年は、もういない。 「――父上」 短く声をかけると、父帝は書類から顔も上げずに答えた。 「何用だ」 その素っ気なさすら、もう何の感情も引き起こさなかった。 ルインハルトは、懐から取り出した小瓶を手のひらの中に握り込んだ。 小瓶の中の無色透明の液体は、何に混ぜても一切の違和感を残さないであろう無味無臭の毒だった。 遥か異国から、足のつかないように取り寄せたものだ。 そこらのありきたりな毒では、日頃から毒に慣らされている皇族には十分な効力を発揮しない。 ゆえに耐性のない、成分のまったく異なるものを探したのだった。 「父上に、献上したいものがございます」 「――何だ」 「上等な葡萄酒です。今宵は、共に杯を交わしましょう」 父帝は、僅かに顔を上げた。その目は警戒しているというよりも、眼前の息子を興味深そうに観察する目だった。 「珍しいこともあるものだな。お前が、私に酒を勧めるとは」 「たまには、良いでしょう。父上も、最近お疲れなのでは?面倒な仕事はすべて引き受けますので、少しお休みになられては如何です」 まるで父親を案じる息子のそれように語りつつ、ルインハルトは用意していた杯に酒を注いだ。 一つには、毒を。もう一つには、何も混ぜないものを。 酒を注ぐ手は、少しも震えていなかった。 震えるものと思っていた。 震えていて欲しいとも思っていた。 けれど、この手はあまりにも静かだった。 それが何より、恐ろしくもあった。 父帝は、差し出された杯を疑うことなく手に取った。 「先日、ヴィルヘルムと話をした」 その一言に、ルインハルトは口角を僅かに上げた。 「父上は昔から、ヴィルヘルムを気に掛けておられましたね」 「気に掛けていた?私があれを?――成る程。お前の目にはそう映ったか」 その言葉に、ルインハルトは僅かに小首を傾いだ。 父はそれ以上、何も言わなかった。 ――まぁ、良いか。これで終わるのだから、どうでも。 どうせ自分は最後まで、この人にとっては盤上の駒のひとつに過ぎないのだ。 父帝は、酒を一息に飲み干した。 そして空になったグラスを、じっと見た。 一度伏せられた双眸が、眼前のルインハルトへと向けられる。 真っ直ぐに見据えてくるその眼差しを、ルインハルトは真正面で見つめ返した。 「あれは最も涼しいような顔をして、最もそれとは遠いところにいる。昔からそうだ」 しばらくの間、何も起こらなかった。 「それに比べて、お前は――最も、近い」 「――え?」 やがて、父帝の顔から、僅かに血の気が引き始めた。 「――ルインハルト」 父帝は、静かに笑った。 呼吸が乱れ始めながらも、その双眸だけは少しも揺らがない。 「……そうか。やはり、お前か」 掠れた声だった。 「ようやく……ここまで来たか」 ルインハルトの眉が、わずかに動く。 「父上……何を」 「その目だ」 父帝は一度、大きく息を継いだ。 「ようやく……私と同じ目をするようになった」 父帝の眼にあるのは、驚愕でも恐怖でもなかった。 ただ、何かを見定めるような眼をして、後継者であるルインハルトを見つめていた。 「人は、国は……この帝国は」 父帝は、なおも言葉を紡ぐ。 まるで、憑き物が落ちたような笑みを浮かべながら。 「理想では治められぬ」 息がひどく乱れ始め、ルインハルトを見る双眸が、苦しげに細められた。 「愛でもない。正義でもない」 縁取る金の長い睫毛が、小さく震えだす。 「恐怖だ。欲望だ。絶望だ。それらが、人を突き動かす」 彩の失せた唇も、震えていた。 「それがお前にも……分かったようだな」 そして父帝は、最後に笑みを深めた。 「私のやり方は……間違っては、いなかった」 不意に咳込んだ父帝の口から、鮮血が溢れ、口角を伝い落ちた。 「ルインハルト」 それでも彼は、言葉を紡ぐのを止めない。 「お前は……私の最高傑作だ」 今伝えなければ、もう二度と伝える機は巡ってこないということを、知っているようだった。 「皇帝になれ」 その眼差しには、ひどく歪んだカタチながら、確かな愛があった。 「私を――超えてみせろ」 父帝はそれを最期に椅子から崩れ落ち、動かなくなった。 ※ しばらくの間、ルインハルトはその骸をただ見下ろしていた。 ――終わった。 そう思うはずだった。 長年、抱え続けてきた憎しみが、これで晴れるはずだった。 アナンの死も、これで、僅かなりとも報われるはずだった。 だが。 胸の内に広がったのは、勝利の実感でも、解放感でもなかった。 ただ、底の見えない冷たい虚無だけが、急速に身体の中を満たしていった。 ――何も、変わらない。 父を殺しても、彼の声が延々と脳裏を巡っている。 冷たく一瞥する眼差しも、密談を聞いてしまったあの夜の絶望も、最後の最後に、求めて止まなかったものを寄越してみせたあの笑みも、消えることはなかった。 すべてを終わらせれば、何かが救われると思っていた。 だが今あるのは、ただの骸と、それを見下ろす、空っぽになった自分自身だけだった。 ――私は、何を求めていたのだ。 愛されたかった、幼い日の自分。 認められたかった、少年の自分。 正しくあろうとした、青年の自分。 そのすべてが、この毒を用意する過程の中で、いつの間にか死に絶えていたことに、ルインハルトはようやく気づいた。 憎むべき絶対の対象を、自らの手で消し去った。 その先に残ったのは、何も感じることのできない、人の形をしただけの、空虚な怪物だ。 ルインハルトは、父だったものに近寄った。 息はない。 鼓動も止まっている。 なのに。 その口元には、満足そうな笑みだけが残っている。 ルインハルトは糸の切れた人形のように、その場で膝から崩れ落ちた。 「違う……私は……あなたのようになりたくなかった」 父帝は最後まで、完璧な皇帝だった。 ほんの僅かでも恐怖に、絶望に震えてくれたなら、この心は幾らか晴れていたのだろうか。 「――父上」 掠れた声で、呼ぶ。 かつては最愛の対象に違いなかった、その名を。 「許してください」 今更何を詫びているのか、自分でも分からなかった。 殺めてしまったことへの、父への謝罪か。 「人を棄ててしまった、私を」 交わした約を守れなかったことへの、アナンへの謝罪か。 「あなたから、逃れられない私を」 父を殺してなお、囚われたままでいる自分自身への謝罪か。 父を超えたかった。 父を否定したかった。 その思いとは裏腹に、父をこの手に掛けた自分は誰よりも、父に似てしまった。 窓の外、月のない夜が、静かに宮殿を覆っていた。 床に横たわる骸の傍らで、ルインハルトは膝をついて俯いていた。 そっと握った父の手は、まだ温かかった。 静かに瞼を落とす。 瞼の裏の闇の中に、ルインハルトは玉座の輪郭を、ぼんやりと思い浮かべた。 そこに座ったところで、何も満たされることはないのだろう。 それでも、そこへ向かうより他に、進む道は残されていなかった。 憎みながらも、最後まで、父の影を追うことしかできなかった自分には。 「――さようなら、父上」 返事が返ってくることは、もうない。 初めて、父はルインハルトを試さなかった。 沈黙だけが、息子の所業に対する父からの答えだった。 玉座は、初めから誰かを幸福にするためのものではなかった。 奪い、奪われ、辿り着いたその果てに待ち受けるのは、誰も救われない場所なのだろう。 それでも、彼は歩き出す。 もう二度と、「父上」と呼ぶ相手のいない世界へ。 その行く末にあるものは、玉座か――或いは。

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