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1章(6)
「……これ」
男の胸に手をついてほんの少し力を入れ、身体を引き離す。左手に持っていたままだったものをその胸に押し当てる。
「何だ、それは」
「プレゼント」
案の定、怪訝そうな目で自らの胸に押し付けられた花束の入った紙袋を見る。聞きたいのは、本当ならこちらだというのに。
ここにやって来るまではあんなにも大切に、慎重に持っていたはずなのに、今この一瞬で花は歪な形になってしまっただろう。
彼は瞳の色を変えることをしないままに、紙袋からそれを片手で取り出した。傷むことを気にしない、無遠慮な掴み方だった。紙の音を立てながら中身を抜かれた袋はそのまま床へと転がり、自分が今夜、優しく丁寧に運んできたその全貌が照明の下で露わになった。
「俺が大して花が好きじゃないことは、知っていたと思うんだが」
そんなことは知っている。誰よりも。
恋人に花束なんて渡すはずがない、何せいつか枯れゆくものをこの男は好まない。何より自分の手で何かを育てるのは全く気が進まない人間なのだ。───ひとつを除いて。
だから自分は花なんて贈ったことなどないし、物よりも時間を大切にする人であることを理解している。
でも、時間をあげることはできない。だから代わりに、自分も以前は物を贈ろうとしたことがあった。それは今も、光の当たらない所に身を潜めている。この人が知らないものだ。
そもそも、自分が贈る物であれば、こんなつっけんどんに渡したりしないし、気分だってもっと高揚している。
否、本当はもっと丁寧に渡すはずだった。渡せるはずだった。
何せここに来るまでの間、自分は花束を守りながら自分の鞄を落としたくらいには、丁寧に運んできたのだ。だから完璧な形のまま渡そうと思っていたのに、なのに、意識しないところで一瞬でそれが崩れてしまっていた。
「僕じゃなくて。───会社の受付の、人から。渡して欲しいって」
「頼まれたのか」
花の中に埋もれていた真っ白なメッセージカードを手に取り、一瞥してから再びその中へと埋める。本当に中身を確かめたのかと言いたくなるほど、一瞬だった。
自分はそのカードがあることを知っていた。花びらの中に挟まっているのを目にした。
でも、中身は見なかった。人が人に宛てて書いたものを、自分で見るのは違うという発想すらないまま、当然のこととしていたことに今更気が付く。
少しだけ頬を赤く染め、照れるように目元を緩めながらも、綺麗な笑顔で声をかけてきたあの女性が脳裏に思い浮かんだ。
悪意なんてなかった。
そして、目の前にいる男への不満も、欠片もなかった。
恋人の美しい指先をぼんやりと眺めながらも、花束を渡された際に言われた言葉を思い出して口を開く。
伝言は、預かったものは正当な相手に届けて初めて意味を持つ。
自分が途中でそれを口を閉ざして握りつぶすことは、してはならないことだった。
「また機会があったら是非、だって」
しかし、言ってから胸の内が淀む。重苦しくなる感覚をどうにか呑み込んだ。
仕事帰りに、受付嬢のひとりから預かっただけだ。そうして伝言を頼まれた。
彼女には何も罪はない。
自分が彼女をよく知らなかったように、人の話の中で出てくる綺麗な受付の人、という印象しかなかっただけなのと同じように、彼女もまた、知り合った素敵な男性の知り合いで、これをお願いしても不当な扱いは受けないだろうという印象を自分に抱いていただけなのである。
───同級生って聞いて。もし会う機会がなかったら、捨ててもらっていいので。
だからこそ何の罪悪感もなく、引け目もなく、知り合いって聞いたから…いつでも良いから渡してほしいと、気軽に頼んできたのだ。
いつでも、ではない。
何故なら花が美しくいられる時間には限りがあるからだ。
だから自分は、気が進まないまま今日ここまで来た。彼女の伝言と、贈り物を確かに届けるために。
何が嫌で、わざわざ恋人の浮気相手のひとりの、まさに浮気そのものをほのめかす伝言を自分が伝えなければならないのだろう。
重苦しい何かを無理矢理に飲み込まされたかのように、胸の内が窮屈になっていく。
喉元までせり上がってくる圧迫感に、つい自分の胸元を片手で握りしめた。
とりあえずは、頼まれたからには受け取ってもらわなければならない。
強引に押し付ければ、気乗りしない顔で恋人はそれを受け取った。受け取ったというよりは、ただ渡された重みを引き取ったという動作のようだったが、自分が気にすることではない。
「…今日、終電で帰るから」
腕時計を見てから、目を合わせないまま告げた。
終電が出るまであと三十分。
言外に今日はいつものようにしないと言うように、あらかじめ言葉としてその壁を作った。
キスに流されそうになったが、今日は熱を交わそうとは思えなかった。だからこそ、いつもなら仕事が終わってすぐ向かうところを、適当に時間を潰しながら夜遅くにここまでやって来たのだ。
そう。いつもなら月に数回だけ会える恋人のもとに、高ぶる気持ちに胸をいっぱいにさせながら足取り軽く向かうものだ。
こんなにも煮え切らない何かを抱え込まされたのは、自分以外の人の肩を、親しげに抱く彼の姿を初めて見た時以来なような気がする。
「ただ顔を見ただけで、帰すと思っているのか」
腕を掴まれて、離れた僅かな距離を埋めるように引き寄せられる。思い通りにいかない恋人である自分に、苛立っているのが分かる。
「嫌だよ。…明日だって、朝早いのに」
その言葉は、偽りではないものの真実でもなかった。
寝室に向かおうとするのに逆らうように、足に力を入れ、掴まれた腕を振り払おうと身動げば、拘束する力が強くなって痛みを与えてくる。
「そんなのは俺だって同じだ」
「僕はここから遠いんだけど」
「始発で帰れ。それが嫌なら車で送って行ってやる」
仕事で忙しいというのに、そんな余計なことをさせられるはずがない。それに、明日日本を発つのなら、恐らく今日の深夜か明日の早朝には時差会議だってあるだろう。睡眠時間を自分のせいで削らせるつもりは毛頭なかった。
自分がそう思うことを知っていて、あえて車で送るなどと言ってきたのか判断がつかないところが性質が悪い。
言うことを聞かない自分に苛立ちを隠すこともないまま、掴んだ腕を強く引っ張り無理矢理に歩くよう強制される。
「今日は、嫌って言って…っ」
「今日を逃せば、またいつになるか分からないのに?」
そんなことは十分過ぎるほど理解している。
だからと言って、さすがに、堂々と浮気をしていることをほのめかされたまま抱かれるなんて気分が良くない。
しかも、そのことに関して一切言い訳もしなければ謝罪もしない。
恐らくは、悪いことをしているという気持ちがないのだ。
この人にとっては、ありふれた日常の中の一つであり、何らおかしいことではない。しかし、そう思わせる原因が自分にもあることを理解しているから責める気にはなれない。
ぼとり、と見た目以上に重い音を響かせながら花束が床に落とされた。
「手のかかるものは嫌いなんだ」
花のことを示しているのだろうが、体を重ねることを拒んでいる今この状況と一致しすぎているせいで、自分のことを言っているような気がして押し黙ってしまった。
「───…」
特別意識することなくそれが落ちる様を見ていたはずなのだが、どうしてか胸が痛んだ。
あんなにも可憐に咲いていた花が、今では無残に数枚花びらを散らしながらくしゃりと形を歪めて床に落ちてしまっている。
あの人は、何も悪いことなんてしていないのに。
その隙だった。強い手に引かれるまま、気づいたら寝室の扉を背に立たされていた。瞼の裏には、まだ散らばった花びらと歪んだ花束の姿が残り続けている。
「終電で帰るなんて、それならお前は何をしに来たんだ」
ベッドの縁に座らされ、責めるように尋ねられる。
そこでようやく、瞼の裏に居座り続けていた残像が散り散りになっていった。
「あれを届けに来たんだけど」
「大して俺が喜びもしない物を届けに来たのか」
「頼まれたんだし、仕方ないでしょ。それに、枯れたら勿体ない」
どことなく機嫌が悪く、まるでこっちが悪いことをしたかのように厳しい表情で責め立ててくる。
その態度に、ほんの少しだけ不快感にも似た違和感を感じた。
どうして自分が責められなければいけないのか、分からない。
頼まれたのだから、仕方ないだろう。あの女性は何も悪くなどないのだから、断る理由なんて一つもなかった。
自分を貶めるものなら自分だって警戒したし、断った。でもこれはきっと違う。メッセージに書かれた言葉も用意された花束も、彼女の好意そのもののはずだ。
「お前は……、……」
性急に、シャツを脱がされながら、押さえつけられるようにベッドの上に押し倒される。
見慣れた天井と、自分を見下ろす恋人の顔。
自分の身体の上に乗り上げ、肩を掴んでくる恋人は…焦燥感に駆られているようだった。
そうした変化が、感情の起伏が、手に取るように分かるほどにはずっと一緒にいたし心を通わせてきていた。
最近は、見る機会が減っていただけで、見えるものの数は減ってはいなかったことに、場違いに気づく。以前はもっと、この表情や言葉の意味するものを見る時間に溢れていた。
「俺に受け取る義務はないな」
「……義務はなくても、理由はある」
言い返すと、途端に眉根を寄せて苦虫を噛み潰したような表情になる。
何か痛みに耐えるように表情を歪ませる恋人に、思わず手を伸ばしどうしたのだと問いそうになった。
反射的に手を伸ばしたのは、それほど自分にとってはこの男が大切なのだと証明しているようである。
「───もう、黙れ」
伸ばした手が取られる。
そのまま顔を寄せて唇を重ね合わせてくる。
それ以上、あの花束と女についてお前の口から何か言葉が出てくることは許さないと言っているようだった。
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