18 / 22

2章(6)

あれから二週間、連絡がなかった。 珍しいことではなく、むしろ通常運転とも言えた。 呼ばれるのは月に一度か多くても二度で、間隔が空くことなど数えられないほどあった。振り返ればその数を正確に出すことができるものの、必要がなかったため数えるということをしなかった。数えてしまえば、数年前までと比較してしまいそうだったから。 ただ、この二週間は長さの質が違った。 以前の空白はただの空白のままでそこにあった。呼ばれないから、一緒に過ごせない。当たり前のことである。 空白が成り立つ理由は一つだけで、あの人が忙しい、だから会う時間を作れない。それだけの理由で埋められてしまう特別な意味を持たない時間だった。 今は違う。 空白が一日ごとに、一時間ごとに、一分ごとに違う色に塗り替えられているのではないか、と思った。空いている時間の一つひとつに、行き先の分からない仮定が貼りついてしまって、それを剥がすことができなかった。 今までは空白はそのままの意味しか持たなかった。否、意味のないただの空白だった。それが、二週間前のあの光景のせいで、今までの空白がもしかしたら意味のない空白ではなかったのではないかという疑念が育ち切ってしまっていた。 今日、あの人はどこにいるのだろう。 誰と一緒にいるのだろう。 あの日の人と、まだ会っているのか。それとも、もう。 この二週間の間で、考えないようにするということは考えるという行為の一種なのだと知った。 仕事は普通にできた。オフィスの中で空き時間があれば勉強もできた。むしろ捗ったくらいである。 手を動かしている間は疑惑という仮定が貼りつく隙間がほとんどないので、進んで残業すら引き受けた。まだ業務に慣れたと言い切れない後輩にどうしたんですかと訊かれて、たまには真面目にやろうと思って、と答えたら笑われた。たまにはじゃなくて、普段からずっと真面目じゃないですか、と言われた。 そこで自分は安心していた。人から笑ってもらえる程度の顔と受け答えはちゃんとできている。毎朝確認する鏡の中の自分のことは信用できなかったものの、他者の言葉を通して自分の作ったものを信用して、形になっていることへの安心感に繋がっていた。 でも、家に帰ると駄目だった。 テーブルの上の白い包みが目に入った。移動させれば良かったのに、できないまま明日やろうと思って明日の自分に擦り付け続けていたら、今日までずっと移動できなかった。 たった一つの、片手で持てる程度の名刺入れが入った紙袋なのに。それを手に取ることができないまま過ごしていた。 見なければ良かったのだが、部屋の中で目を逸らし続けるというのは思っていたよりずっと難しかった。視界の端にあの白が入ってくるだけで、あの日の紙袋の重さが手のひらだけでなく全身に、そして目の奥に戻ってきてしまう。 一度だけ捨てようかと思った。たった一度だけ。 たった一度になったのは、思った後に手が動かなかったからだ。 当然のことではあるが、捨てるという行為はその物がなくなるということだ。物がなくなるのは、この場合渡す気がもうないという結果になる。渡す気があるかは分からなかった。でも、ゼロにしてしまうとなかったことにした計算と同じものが出てくる。だから包みはテーブルの上に残り、自分は毎晩それを視界の端に入れながら眠りに入る日々を過ごしていた。 そして、十四日後の午後に携帯が震えた。 連絡が来たのはまた土曜だった。二週間前と、同じ曜日である。 『今日、来られるか』 それだけの文章だった。 いつも通りの用件だけの短い文である。何も飾り一つない、何も削られていない…元よりこれ以上削られるものがないのだから当然だが、本当にいつも通りのメッセージだった。何度も見た形の文字列を、その時の自分は随分と長く見つめてしまった。 安心していた。 それが分かった瞬間、耳の後ろが熱くなった。あんなにも泣いていたのにこの瞬間は涙が出なくて、怒りもなくて、裏切られたという絶望もなかった。 連絡が来て、その連絡の文面が普段と何ひとつ変わりがなくて、自分は心の底から安堵していた。 でも同時に、何を安心しているのだと責め立てる声も自分の中にはあった。 今日来られるかと呼ばれた。呼ばれたということは、まだ終わっていないのだ。しかし、終わっていないというだけのことで、あの夕暮れ時に見た光景と、この二週間の全部が帳消しになるような気がしている自分が、どうしようもなく浅ましくて、恥ずかしくなった。 こんなたった一文の、普段と何ら代わり映えのない連絡一つで、二週間の間にあった全てを、自分は。 画面は真っ新だった。 あの時送ろうとして送れなかった文字は、その時に全て消していたから当然である。 行くよと送った。 それ以外に送るべきことがあったのに。聞くべきことがたくさんあったのに、たった三文字しか返信しなかった。一秒すら迷うことなく、その返事を送っていた。浅ましい自分を、もう自覚しきっていた。 何分待っても返信は来なかった。いつも来ないからそれを気に留める必要はなかった。 年度初めのこの時期は、休みでも会社に出ている人間が何人かいる。世間が休日であっても、うちにもあの人の会社にも仕事はあった。自分も例外ではなく、今日は土曜日に仕事をしていた。忙しいのは心のゆとりを削っていくものではあるが、今は部屋にいるよりこの方が楽だった。 切りのいいところで打刻をして、一度家に帰った。 シャワーを浴びた。理由がはっきりしないまま時間をかけて、髪を乾かして、それから服を選んだ。 選んでいる途中で、手が止まった。 何故着る服を選んでいるのだろうと思ったのだ。あの人は自分の服になど興味がない。着ているものについて何か言われたことは、付き合い始めてから一度もない。それなのに、今自分は二枚のシャツを両手に持って迷っていた。 (───あの日の人は、綺麗な服を着ていた) 一瞬でその考えが浮かんで、一瞬で嫌になった。勝手に顔が赤くなっていた。照れくさい、というものではなく、自分という人間に対する恥ずかしさだった。 そういうことをしたいわけではない。あの女性と自分を比べたいわけでも、勝ちたいわけでもない。 何せ根本的なところが、立っている土俵がそもそも違った。自分は男で、あの時隣にいた人は女性。 着るものや見た目で何か比べられることはできない。比べるという行為は、同じ分類にされているものに成り立つものだ。自分とあの女性は、そもそも比べる位置にお互いが当てはまっていないはずだ。 ただ、自分は今、明らかにそのつもりで服を選んでいた。 それが怖かった。何も考えていなかったはずなのに、自分はあの女性と比べられたいと、勝ちたいと思ってしまっていたのだ。 その思考を全て掻き消すために、それ以上服を見比べることも、鏡の前で当てることもしないまま、左手に持っていた方を着た。理由は、そちらの方が新しいというだけだった。 手早く支度をした。 いつもの時刻まで時間がないわけではなかった。なので焦ってもいない。いつもと同じ時刻の電車に乗って、いつもと同じ時間電車に揺られて、いつもと同じ時刻にあのマンションに到着する。 それでも動作が急いていたのは、一刻も早く会いたかったからだ。 鞄を持って玄関で靴を履いてから、あることに気が付いて一度部屋の中へと戻った。 テーブルの上の白い包みを手に取る。リボンはあの日のまま少しも崩れていなかった。 指先で包み紙の触りを確かめるように撫でる。鞄に入るだろうかと大きさを見て、入ることを確認してから──戻した。 テーブルの上にそっと置いた。 渡す日は今日ではない。今日はきっと、自分は泣いてしまう。泣いてしまうか、取り乱すか怒るかしてしまう。 否、どれも分からなかった。自分には、彼と会った時にどうなってしまうのか全く予測できなかった。わからないことが、一番だめだった。 それでも、予測できない今日に、あの時真剣に悩んで選んで買ったお祝いを、中途半端な形で渡したくなかった。 しかし、今日でないならいつなのかを考えようとして、止まっていた。 白い包みをテーブルの上に残して、湊は部屋を後にした。

ともだちにシェアしよう!