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2章(4)

───どれくらいそこに立っていたのだろう。 紙袋の持ち手が、手のひらに食い込んでいた。 名刺入れひとつだけ、たったそれだけの重さをした紙袋だ。持てないはずがないのに、自分の腕ごとどこかに置いてきてしまったような重苦しい感覚だった。 家までの道は、覚えていない。 ビルに背を向けて、あの横断歩道をまた渡って、駅に着いて、電光掲示板で時刻を確認して、電車に乗ったはずだ。 電車の中で座っていたのか立っていたのか分からない。紙袋は、ちゃんと手に持っていたようだった。それも覚えていない。 電車を降りたはずで、駅から帰路を歩いたはずである。 次に気づいた時には自分の部屋の玄関で靴を脱いでいて、脱いだ靴を、いつも通りに揃えていた。よく恋人から几帳面だなと、高校時代から言われ続けていたものの一つが、こんな時でも手だけは勝手にいつも通りのことをするのだと、他人事のように思った。 紙袋を、テーブルの上にそっと置いた。ちゃんと落とすことなく持ち帰っていたと、そこで自覚できたのだ。 そしてそれを投げもしなかったし、落としもしなかった。白い包みにリボンがかかったままのそれを、渡す直前のような丁寧さで、傷つけないように、音を立てないように置いた。 置いてから、自分の手を初めて見た。 ──濡れていた。 いつから泣いていたのだろう。 駅のホームや電車の中、そして人の通りの多い道端で泣いていなかっただろうか。 頬を伝ったものが顎から落ちて、手の甲で弾けて滴り落ちていく。 その雫をいくつか見た後からは、頬から手に落ちるものと、瞳から真っすぐ床に落ちていくものとで分かれ始めた。 自分は泣いているのだ。 それが分かった途端に、堰を切った。 声は、ほとんど出なかった。我慢をしていたわけではなく、嗚咽を漏らすことも泣き叫ぶこともなく、意識しないまま音を出さずに泣いていた。 ただ、息の仕方が分からなくて困った。 吸っても吸っても足りなくて、吐くたびに肩が震えて、喉が引き攣れて、肺の奥が苦しくなっていく。 視界が水の膜の中に溶けて、見慣れた部屋の輪郭がなくなっていく。 立っていられなくて、テーブルの脚のそばに座り込んだ。座り込む時の音も静かだった。フローリングの冷たさが腿に染みてきても、何故かその場から動けなかった。 (どうして) どうして…なのだろう。 揺れて霞む瞳の奥に、華奢な腰に回された腕だけが何度も何度も蘇ってくる。 あれは、何なのだろう。 あの女性と、付き合っているのだろうか。付き合っていなかったら、あの抱き寄せ方は一体。 泣き声は出ないままなのに、言葉の方が先に喉を通っていった。 裏切られた、と思った。 好きなのに。恋人なのに。高校三年のあの日から、ずっと付き合っているのに。 しかし、そう思った次の瞬間には、その言葉が自分の中のどこにも見当たらないことに気づいた。 裏切りというのは、破られるものがある。約束した関係を、言葉を、それが破られて初めて成り立つもののはずだ。 探してみた。これまで一緒に過ごしてきた時間の中を、最初から今日まで。 何もなかった。 僕だけにしてとも、他の人と会わないでとも、他の人を抱きしめないでとも、一度も言っていないし、言われてもいない。自分たちの間には、破るものが何一つとして存在していなかったのだ。ただ、あの日、好きという言葉だけがあった。 もう、僕のことは──…。 「……好きじゃ、ないの」 暗い部屋に落ちた自分の声は掠れていて、思っていたよりもずっと幼く聞こえた。目の前には誰もいない。電話も、繋がっていない。それなのに、答えなんて貰えるはずがないのに訊いていた。 「終わり…なの……」 自分の口から、勝手に言葉がこぼれて出ていく。 (何かした?) (何か、直せば良かった?) 言ってくれれば良かったのに。 言ってくれれば、直したのに。自分の直すところなら、いくらでも探したのに。別に自分の性格にこだわりなんてない。悪いところがあるなら謝るし、直せるところは全部直す。だから、 (───僕には、瑞樹しかいないのに) 肩の抱き方を思い出しては泣いた。腰に落ちた手を思い出しては泣いた。 思い出すという工程は不適切だった。今もずっと、目の前にある光景として瞼の裏に焼き付いている。 あの手が、あの指が、どこに触れて、どんなふうに動くのか、自分は全部知っているのだ。 女性が頬を上気させながらも笑ったあの瞬間、彼がどんな声でどんな言葉を口にしたのか、容易に分かってしまった。 知っていることの全部が、いちいち自分の胸の柔らかい所を刺してくる。 涙というのは、涸れるものだと思っていた。泣き続けていれば涸れると誰かが言っていたはずだ。 涸れなかった。 少し止んでは、何かの拍子にまた溢れた。 窓の外が完全に暗くなって、夜に切り替わってからもカーテンを閉めることができず、部屋の電気もつけないまま、床の上に座り込んでいた。帰宅して涙に気づいた時から、少しも動けていなかった。 帰った時に自分で置いたテーブルの上の白い包みが、暗がりの中でぼんやりと輪郭を立てていて、視界に入るたびに、また駄目になった。涙は全然止まっていなかった。 時計の針の音が聴こえ始めた頃に、真っ黒な画面が視界に入った。 認証して開いてみれば、暗い部屋の中でそれは眩しいほどに光った。画面には、打ちかけの文章がそのまま残っていた。文章の終わりに明滅するカーソルが一定のリズムで動いている。未送信のまま残されたメッセージだった。 近くまで来てるんだけど。 送信されなかった文字を、親指で数度触れながら一文字ずつ消した。 全部消して、閉じて真っ暗になった画面に泣き腫らした自分の顔が薄く映った。暗い部屋の中ではほとんど細部なんて見えないはずなのに、ひどい顔だと思った。今まで生きてきてこんなに泣いたのも、こんなひどい顔をしているのも、初めてだった。こんな顔、あの人には一生見せられない。 見せられないと思ったことに、少し遅れて気がついた。 どうしてだと、終わりなのと泣いていたはずだった。 それなのに、今自分は、あの人には見せられないと思っていた。 その言葉が表すものは、まだ自分のこの先の人生にあの人がいるという思考だった。

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