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2章(8)
「来たか」
玄関で靴を揃える、いつも通りの動きをしていたら後ろから声をかけられた。立っているのは、いつも通りの瑞樹だった。
ネクタイはなくて、ラフな格好になっている。仕事が終わってから少しの時間が経過しているらしいことが分かった。シャツの袖を捲っていて、髪が少し湿っているような色をしていて、シャンプーの香りがしている。先にシャワーを浴びたらしい。それだけの情報を無意識に拾っていく。
「うん。……仕事、大丈夫だったの」
震えない声を出せるか心配した。でも、その心配をよそに自分の声はすんなりと出ていた。
「今日は早く上がれた。上がれる日は上がる」
揃えた靴に意味もなくもう一度視線を移してから、ようやく足を一歩踏み出すことができた。
前を歩く瑞樹の背中を見ていたはずなのに、廊下を歩き始めてものの数歩で視線が外れる。
自分の意思ではなかった。
さっき揃えた靴を意味なく見たのは、玄関の靴の数を確かめるためだった。そして瑞樹の背中から外れた視線は廊下の隅へと移り、次に閉ざされているコートクロークにまで伸びた。開けたリビングに入って、まず香り、そして視線をテーブルの上に向けてから、ソファの座面を見て、歩みを進めて動線を外し、キッチンの流しへ。
目が、勝手に一巡していた。
(───やめろ)
止めたときには、もう検分が終わっていた。
何もなかった。少なくとも目に見えるものや匂いで分かるものの中には。
何もなかったことに身体の芯からほっとしている自分がいる。
でも、その安堵の分だけ自分が汚れた気がした。決めたのに。移動時間の全ての中で決めて、扉を開ける前にも言い聞かせたのに、玄関から居間までの何歩かで全部が崩れた。安心するために、自分は人の部屋を検分した。
見つけたいと思いながら見つからないでと願っていたのだ。
数えられるほどの短い時間だったというのに、自分にとってはあまりにも長く、あまりにも息苦しい時間だった。
「なんだ、突っ立って」
「ううん。…なんでもない」
キッチンに向かって冷蔵庫を開ける瑞樹の背中を見る振りをして、その中を覗こうとしていた。もう、駄目だった。
止めても止めても目が探ろうとする。視線を無理やりに剥がして、ソファの縁に浅く腰掛ける。
太腿の上で緩く指先を絡めながら、床へと視線を落として遮断しようとしたのに、今度は床にあるかもしれない何かを探そうとする。
そんな自分に嫌気が差しそうになり、深呼吸をしたところで瑞樹が缶ビールを二本持って戻ってきた。片方を差し出されて、受け取った。両手で受け取ったそれは、手のひら越しに冷たさが伝わってくる。
「飯は」
「食べてきた。瑞樹は?」
「済ませた」
嘘だった。食べられなかった。体調が悪いわけでもなんともないが、食べなかった。
既に喉元まで窮屈だったのに、更に何かを胃に入れるなんてできなかった。
その自分の答えを疑うことなく、瑞樹が隣に腰かける。
テレビはついていない。この人はテレビをあまり見ない。何かの作業で手が止まった時にも、気晴らしにラジオで音だけを聞いている人だ。
人の話し声がない代わりに、その間に仕事の話を少しした。
担当が変わったこと、来月また海外出張が入ること、そういう話である。自分も、後輩に笑われた話をした…していた。あの計算に一つも乗ることのなかった、意味のない話をすんなりと口にして、そして瑞樹はそれを聞きながら少しだけ笑った。
いつも通りだった。
いつも通りすぎて、自分の中にあるものだけが、もはやこの部屋の中で異物になっていた。
あの日、二週間前。夕方のビル。
通りの向こうで、この人は女の人の腰に手を回して、抱き寄せていた。二人きりでホテルの中へと姿を消した。夕方まで仕事があると話していた日の出来事だった。
その事実がここにある。
自分の目で見た。その後、止める術もなく泣いた。暗い底も見た。
しかし、すぐ隣の男はビールを一口だけ飲んで笑っていて、自分の仕事のことも話した。その顔とその事実が、どうやっても同じ場所に重なってくれない。
「湊」
呼ばれて、顔を上げた。
返事をするよりも先に、缶をテーブルに置いた手が頬に触れる。体温が近くなるのが分かった。
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