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第4話 〈英雄〉と呼ばれた男①

 軽ワゴンの運転手は、酒を飲んでいたらしかった。  負傷者を救急隊へ引き渡し、後片付けを終えて残りを警察に引き継ぐと、ジンたちは救助工作車に乗り込んで現場を後にした。 「巻き込まれ事故とはいえ……飲酒運転じゃ、世話ないな」  無事に任務を終えた車内は、出動時よりも幾分かやわらかな空気に包まれていた。後部座席で機材とともに揺られながら、同僚のリョウが呆れたようにつぶやいた。頭上にかけられているヘルメットの表面に、角ばったもみあげと鋭い目が反射している。 「だから、ずっとだんまりだったわけだ。それにしてもあの子、なんで生きてるってわかったんだか……もしかして、お前と同じか、ジン?」 「やっぱりそう思うか?」  ジンはニヤッとした。 「ああクソ、連絡先だけでも聞いておくんだった。今からでも走って追いかけようかな」 「お前……ほんと、見境ないな」  リョウや隊員たちが笑い、とりとめなく別の話題に移っていく。彼らに話を合わせながら、確かにその可能性は高いとジンは思っていた。あの青年は、運転手の様子を見もせずにそう言ったからだ。  実際、銀髪の青年の姿は、妙に頭にこびりついていた。それは、図書館の似合いそうな、綺麗すぎる容姿のせいだけではない。彼と目があったとき、ジンはなぜか背筋がぞっと薄寒くなった。まるで彼の背後に見えない扉があり、その向こうに冴え冴えとした冷たい闇が広がっているような……。  ジンは小さくかぶりを振った。そんなはずはない。現にジンは、青年の声を聴いた。鼓動も、呼吸も、すべてが生きた人間だった。彼の身体のざわめきを思い出しながら、いつもの癖で軽く目を閉じ、意識をすうっと広げていく。  瞼の裏で闇が濃くなるにつれて、波が寄せては返すように、生者のたてる無数の音が耳に入ってくる。隊員たちの穏やかな声。助手席で緊張を解かずにいる隊長の呼吸。すれ違う車内の会話、遠くの道を行きかう人々の足音……。  いきなり、ジンは目を開いた。 (……ジンさん、) 「隊長!」  鋭い声に、一瞬にして車内に緊迫感が戻った。 「停めてくれ!要救助者疑いあり!」  助手席の隊長は、一刻も無駄にしなかった。号令がかかり、ほかの隊員たちもすぐさま装備を探して動き出す。 「停止、要救助者疑いあり! 後方安全確認、全員降車準備! 二番員、特別行動を許可する、対象を報告しろ!」  すでにジンは、追跡を開始していた。一秒の遅れが、生死を分ける。そう叩き込まれてきた身体は、考えるよりも先に動いた。ヘルメットだけをひっつかんで、路肩へ停止した車両から飛び出し、全神経を集中させて、かすかな声をたどって走る。せわしない自分の息遣いが邪魔だった。 (ジンさん……)  か細い子供の声が、必死に自分の名を呼んでいる。 (たすけて、ジンさん……!)  細い路地裏で、ジンは急停止した。さびれたがらんどうの廃屋が並ぶ中、一軒だけ不自然に真新しいシャッターが閉まっている。ジンはそこへ駆け寄ると、中に向かって呼びかけた。 「こちら暮雨消防隊、救助に来た。中に誰かいるか?」  息をのむ音に続いて、消え入りそうな、だが確かな声が聞こえた。 「ジン、さん……?」 「そうだ」  ジンは無線を取り出しながら、力強く呼びかけた。 「もう大丈夫だ。俺が絶対に、助けてやるからな。中にいるのは一人か? ――こちら二番員、要救助者を発見! 三丁目七番地の廃屋に一名、就学児と思われる。状況は……」  中にいたのは、数日前から行方が分からなくなっていた小学生だった。下校途中で何者かに連れ去られ、一人でここに閉じ込められていたらしい。  ジンは以前、地域の消防教室で、その子供の小学校にも訪れていたことがあった。 『俺は、耳がものすごくいいんだよ』  ひな鳥のような子供たちを見渡しながら、ジンはそう教えていた。 『危ないことに巻き込まれたら、『ジンさん助けて』って言ってみろ。聞こえるわけないと思っても、案外聞こえるもんなんだぞ』  救助された子供は、ストレッチャーで運ばれていった。こちらを見ていたまん丸な瞳が、疲労に負けて徐々に閉じていく。搬送の邪魔にならないように避けながら、リョウがジンをねぎらった。 「こういう時は、ほんと〈英雄〉だよな。お前じゃなきゃ、あと数週間は見つからなかっただろう。そうなってたら手遅れだった」 「ああ。任せとけ」  軽口で応じながらも、ジンは険しい顔を崩さなかった。白い車両が消毒液の匂いのする口を開き、ストレッチャーを飲み込んでまたすぐに閉じる。救急隊の声、いくつかの機械を操作する指の音。小さな身体の、脈は弱い……。 「……悪い。一時離脱する」  まるで肩に死人の手でも置かれたかのように、ジンは反射的に首を振った。 「まだ耳が安定しない。五分で戻る」 「了解」  ちょうど、隊長がエンジンカッターを拾い上げて、破壊されたシャッターからガレージに入ってきたところだった。彼にも許可を得て、ジンは表通りに戻った。  日はすっかり落ち、夜風が顔に心地よかった。車両から路地への動線は立ち入り禁止のテープで囲まれ、通行人が興味深げに通り過ぎていく。 「……あーあ」  自分のため息が思ったよりもさえなく聞こえて、ジンは思わず苦笑した。リョウや人々が自分を呼ぶ、仰々しい二つ名の印象とは大違いだ。力仕事はさっきの事故現場の方が多かったはずなのに、今は全身の神経がすり減ったような疲れが残っていた。ジンは首を振り、ひとまず水分補給でもしておこうと、車両のドアに手をかけた。……その時だった。  背後で、何かがどさりと倒れる音がした。  ジンは素早く振り返った。人が倒れるような重い音は、一本隣の路地から聞こえた。身体が瞬時に、任務状態へ切り替わる。ジンはすぐさまロープを跨いで、細い路地に足を踏み入れた。  かすかに湿った匂いのする路地は、夜の青い闇に沈んでいた。中ほどに一つだけ、背の高い街灯が立っていた。冷たく白い円錐状の光が、地面に横たわる何かを煌々と照らし出している。  用心しながら近寄ったとたん、ジンの瞳孔が縮んだ。  倒れていたのは、長身の大柄な男だった。仰向けで、手足をだらりと投げ出し、首が妙な角度にねじれている。短い髪は赤黒い何かでべったりと汚れていて、どう見ても生きている人間の状態ではない。しかし、ジンを震撼させたのは、死にざまよりもその男自身だった。汚れて色あせたオレンジ色の隊服。首元から覗く黒いシャツの襟。袖口に見える、愛用の腕時計。それはまるで、いや、間違いなく―― 「……嘘、だ」  あまりのことに、目が現実を拒否した。頭の芯に鉄の棒でも突っ込まれたように、一瞬自分がどこで何をしているのかわからなくなった。雨の中にいるようにぼやけた視界の中で、どくどくと脈打つ心臓の音だけが聞こえる。数えきれないほどの任務の中で、こんなことは初めてだった。  気がつくとジンは大通りに戻って、浅い呼吸を繰り返していた。通行人の視線で、ようやく我に返る。そうだ。ぼさっとしている暇はない。一刻も早く、あれを動かさなければ。胃の底を焼く酸を無理やり押さえつけて、ジンはもう一度、ゆっくりと路地を覗き込んだ。  そして、愕然とした。  自分の死体は、跡形もなく消え去っていた。誰もいない路地には、細い風の音だけが響いていた。

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