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第5話 〈英雄〉と呼ばれた男②
「先日は、失礼しました」
テーブルにコーヒーを置くと、青年はジンの顎のあたりを見ながらぼそぼそと呟いた。
「気にしなくていい。急に触った俺も、悪かったから」
青年の指がぴくりと動き、黒で包まれたそれを何度か曲げ伸ばしした。ジンは、十日ぶりに会う彼の姿をじっと眺めた。相変わらず、見ているだけで、なぜか落ち着かない気分になる青年だ。
「この前と同じ服だな」
「いいえ、違います」
「そうか? 前も、そのひらひらした白のシャツと、黒いスラックスだった。そういえば、あの事故現場でもそうじゃなかったか?」
「いいえ。これは前回のものより袖口の長さが一センチ短く、事故の時のシャツはピンタックのない形でした。それよりも」
そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、青年は煩わしそうに首を振って本題に入った。
「昨日、あなたの言っていた現場に行ってきました。やはり〈残声〉はありませんでしたよ」
「そんなことがあり得るのか?」
ジンは姿勢を正した。
「死体があるところには、必ず〈残声〉があると。あんたがそう書いていたじゃないか」
あの日、消防署の仮眠室で壁を見つめて五時間を過ごしたジンは、夜明けとともに一つの結論を出していた。なぜあんなものが現れたのかは、もはやどうでもいい。重要なのは、あの未来を実現させないために、全力を尽くすことだ。
〈残声師〉という存在はいかにもうさん臭かったが、サイトでレイの写真を見たジンは、思わず納得のうなり声を上げていた。一瞬すれ違っただけなのに、幽霊のように頭に憑りついてしまった、あの青年。こんなところで再会するとは思わなかったが、この手の相談をするにはこれ以上ないほど適任に感じる。
だが、現実はそう単純に行かなかった。
「〈残声〉は、物質に残るものです」
青年の声は、底の知れない井戸水のようだった。
「それをたどるには、私が実際にあなたの死体に触れるか、あなたが死んだ場所に行かなければなりません。今回、あの路地に〈残声〉がなかったということは、もしあなたが死体になっていたにせよ、少なくともあの場所で死んだわけではないということです」
「……俺はまだ、生きてるんだよな?」
ジンは、わざとおどけたように両腕を組んでみせた。青年は、愛想笑いをすることさえしなかった。
「はい。ですから、困っているのです。そもそも、その死体が幻覚だった可能性だってある……。最近、特別に強いストレスを受ける任務はありましたか? 目の前で人が亡くなったりとか、あなた自身が死にかけたりとか」
「それは、ないんだが……」
組んだ腕の内側で、肘を叩く指のリズムが、とん、とん、と次第に早くなってくる。まるで、大理石でできた冷たい彫刻と話しているようだった。縁起でもない仮定を平然と口にして、眉一つ動かさない。前回、手首に触れた時の、驚愕した彼の顔が脳裏によみがえった。指先に感じた体温を思い出して、手のひらを強く握りしめる。
「なあ。レイさん」
ジンは出し抜けに言った。
「隣に行っていいか?」
「……何をするつもりですか」
「大丈夫だ。勝手に触ったりしないから」
あからさまに警戒して身を引いたレイの、人間らしい反応に少し安心する。今ジンに必要なのは、死ではなく生の話だった。
返事を待たずに席を立ち、ジンはレイの隣に腰を下ろした。薄い体を、改めて隅々まで観察する。白いシャツの向こうで胸が上下し、目立たない喉仏が小さく動いた。そっと息を吸い込むと、かすかにユリのような香りがする。少しだけ開いた唇の間で、湿った息が音を立てる……。
「……この前から、あなたは何なんだ。私の外見は、どこかおかしいですか?」
引きつった声で、ジンは我に返った。怒りなのか、それとも別の感情なのか、レイの目元に初めてわずかな血色が差している。ジンは、無意識に唇を舐めていた。
「いや? 綺麗だなと思ってただけだ」
両ひざの上に肘をつき、少し身を乗り出すようにして笑いかける。軽口をたたいている方が、気が楽だった。
「あんたみたいな男なら、俺は大歓迎なんだが……あんたは、俺みたいなのは興味ないか?」
「捜査の場に、個人的な趣向の話を持ち込まないでください」
「探偵は依頼人のことを調査するものじゃないのか? わかった、それなら俺があんたを調査しよう。まずは、好物からだ」
「……好物?」
レイは、かなり当惑しているようだった。
「それを知って、捜査に何の得があるのですか」
「別にいいだろう。ただ俺が、あんたをもっと知りたいだけだ」
胡乱な目がジンを見たが、どうやら害になる質問ではないと判断したらしい。レイはしばらく真剣に考えてから、存外素直に答えてくれた。
「メープルドーナツです」
「……ははっ!」
霞でも食べていそうな顔に、カロリーの高い菓子が全く似合わない。声をたてて笑うと、レイは少しむっとしたようだった。
「何かおかしいですか」
「いや」
ジンは片腕をソファの背もたれに回して、くつろいだ姿勢で隣のレイを見ていた。先ほどより、ずいぶん息がしやすくなっていた。
「それなら、次来るときは差し入れに持ってこよう。ああ、コーヒーもつけようか。消防署の前に、よく買ってる美味いキッチンカーがいるんだ」
「お気遣いなく」
すげなく言いつつも、やはりレイの表情は少し人間らしく見え始めていた。メトロノームのように一定だった鼓動にも、小さな波が現れている。……それが、もっと聞きたかった。
いつの間にか、ジンはソファの背もたれを離れ、レイの太腿のすぐ横に手をついていた。急に静かになった事務所に、彼の喉がかすかに鳴る音が響いた。心臓の鼓動が、わずかに早くなった。凍り付いたように固まる淡い瞳に、自然と顔が吸い寄せられていく……。
電話の音が二人を切り裂き、レイが素早く立ち上がった。ジンに軽く目礼を入れて、すぐに応答する。
ジンは、大きく息をついたが、まだレイを目で追っていた。慣れてくると、彼はわかりにくいだけで、ちゃんと血の通った人間だと思えた。
「……いえ、その節はどうも。ええ。それで……はい? 今、なんと……?」
電話の相手は、別の依頼人のようだった。内容を詳しく聞くつもりはなかったが、徐々にレイの声が深刻になり始めた。険しい顔で話しながら、卓上のメモに何やら走り書きをしている。
「今、どちらにおられますか? ……わかりました、そこを動かないでください。いえ、遠慮なさらず、私が確認したいので。すぐに向かいます……では」
電話を置いたレイが、まっすぐにジンを見つめた。ジンは無意識に立ち上がって、任務の時の「気をつけ」の姿勢を取っていた。
「……何かあったのか?」
「ジンさん」
再び感情を失った声が、事務的に響いた。
「調査が進展しました。――三件目の、未来死体の報告です」
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