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第6話 崩れる鼓動①

 取り壊し中の学校の敷地には、茶色く汚れた漆喰の瓦礫が散らばっていた。そこかしこに残っている崩れかけた建物が、忘れ去られた遺跡のように見える。  依頼人のイオリは、裏門で待っていた。道路に面した黄色いガードの脇から、校舎の陰に倒れている自分の死体を発見したらしい。しかし、レイたちが到着した時にはすでに、死体はまたしても消え去っていた。 「あなたは、なぜこの場所に来たのですか?」  気弱そうなイオリは、ぎくりとしたようだった。手がぶるぶると震えている。 「その、落とし物をしてしまいまして。このあたりで人とぶつかったので、たぶんその時かなと、引き返して探していたんです」 「それはどんな人でしたか?」 「よく覚えていません……だって、振り返ろうとしたら、……あの光景が……」  しわの刻まれたイオリの顔が、再び蒼白になってきた。まるで、横を通り過ぎていく車が、霊柩車にでも見えているようだった。 「恐ろしくなって、とにかく警察を呼ぼうと思いました。でも、振り返った時には、もう何もなくて……。それで、レイ様のことを思い出して、お電話してしまいました」  レイは、ジンと顔を見合わせた。イオリの話は、これまでの二件とよく似ていた。ここまでくると、さすがに偶然とは思えない。何か、特定の幻覚が見える仕掛けがあるんだろうか。あるいは、考えにくいことだが、本当に死体があったのか……。  しかしイオリは、震える両手を、きまり悪そうにねじっていた。 「あの、せっかく来ていただいたのに申し訳ないのですが……やっぱり、私の勘違いかもしれません。きっと、何かと見間違えたのかも」 「そうですね」 「そんなわけがない」  レイとジンは、同時に真逆の返事をした。一瞬黙ってから、レイは息をついて軽く腕を揺らした。 「とにかく、こちらで調べてみますので、ひとまずはお帰りください。後ほど報告のメールを送ります。それから、何か異常を感じたら、迷わず病院へ行ってください」 「あ……ありがとうございます」  ほっとしたようにそそくさと去っていくイオリを見送って、ジンが腕組みをした。 「ほら、俺の妄想じゃないだろ。やっぱり、本当に死体があったんだ」 「ならば、それはどこに行ったんですか?」  レイは冷静に聞いた。ジンは眉を上げた。 「それを知りたくて、あんたを頼ってるんじゃないか。そうだ、前にテレビで、一瞬でものを燃やす消失トリックを見たな……」 「この短時間で人体を焼失させるのは不可能です。死体が自分で歩いて行った可能性の方がまだ高い」 「……へえ。あんたも、冗談とか言うんだな」 「いいえ。空になった肉の器に他のモノが入り込むことはたまにあります」  淡々と述べて、レイは校舎の方を眺めた。曇り空の下で、崩れたコンクリートは墓石のように沈黙していた。 「ですから、ひとまず近辺を捜索してみましょう。本当に死体があったなら、それが歩いたにしろ隠されたにしろ、まだそう遠くへ行っていないはずです」  裏門の前には、ポールと赤い三角コーンでバリケードが作られていた。レイはそれを乗り越えようとしたが、急に手首を引かれて、すぐさま振り払った。一歩後ずさり、呼吸を整えてから、表情を消してジンを見つめる。 「……手には勝手に触るなと言いましたよね」 「悪いな。綺麗な指だと思って、つい」  ジンは、悪びれない笑みを浮かべていた。どことなく、目だけが笑っていないような気がした。 「だが、あんたは一般市民だ。こういうところに許可なく入るんじゃない。ここは俺に任せてもらおう」 「それであなたは、歩く死体の対処方法も知っているのですか?」 「……それは」  ジンが答えるまでに、少しの間があった。それで十分だった。レイはバリケードを乗り越えて、不揃いな砂利の上に足を下ろした。ジンは、休工日の赤い文字をしばらく睨みつけてから、いつも持ち歩いている装備袋を肩に揺すり上げ、顔を顰めて後に続いた。  東側の区画はあらかた解体が終わっていたが、西側はまだ建物がほとんど残っているようだった。一階の昇降口から校舎に入ると、埃っぽい匂いが鼻をついた。廊下の内装はすべてはがされ、むき出しになった配管や電線が、ツタのように壁中を這いまわっている。  教室を一つ一つ覗いていくレイの横には、ジンがぴったりと寄り添っていた。あまりに近くを歩かれたので、レイは珍しく集中できないほどだった。右に足を出せば右腕で囲うように盾を作られ、少しかがめば頭上に影が落ちる。  二階の端にたどり着くころ、レイは文句を言った。 「少し離れてもらえませんか。ぶつかってしまったら危ない」 「危ないのはあんたの方だ。取り壊し中の建物がどれだけ危険か、知ってるか?」 「一般的な危険は承知しています。でも、こういう現場はよくありますので」 「これが、よくあることだって?」  レイが踏み出そうとしたローファーの下から、ジンはとがった小さな破片を教室の中へ蹴って避けた。遠くで、瓦礫がぶつかる軽い音がする。 「こんなの、俺が今までしてきたデートの中で最悪の場所だ。ずっと生気がないとは思ってたが、あんた本当に死にたいのか?」  今日は非番だろうに、ジンのベルトではごついアンカープレートやらカラビナやらが小さな金属音を立てていた。レイはため息をついた。そういう脅しには慣れている。 「お気遣いありがとうございます。ですが、そこまで――」  何気なく顔を上げて、レイは思わず立ち止まった。ジンの顔には、一片の軽々しさも残っていなかった。ただ真剣に、レイをじっと見つめている。 「レイ。よく聞け」  ジンの声が、初めて自分の名を呼んだ。 「レスキュー隊員として忠告してやる。調査も大事だが、自分の安全を第一に考えろ。どんな現場でも、それが鉄則だ。――俺は、あんたに、死んでほしくない」  レイは、まじまじとジンを見つめ返した。遠い昔にそんな言葉をかけてくれた何人かの面影が、心の隅を漂ってすぐに消える。  レイにとって死とは、毎日通り過ぎている近所の家のようなものだった。当たり前にそこにあって、別に恐ろしくもない。今のところは用がないから素通りしているが、招かれた時には躊躇いなく入る。……そういうものだと、思っていた。 「……お気遣い、ありがとうございます」  ジンから視線を逸らすのに、意外なほどの時間がかかった。 「では、もう一階上まで見たら終わりにしましょう。先ほど外から解体状況を見ましたが、四階以上は死体が隠れられるところもなさそうです」 「……おい」  制止から逃げるように階段を上りながら、レイは無意識に右手を握りしめた。

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