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第8話 迷惑な安全装置
明るい影の落ちたマンションの屋上で、レイは黒い手袋をはめなおして立ち上がった。屋上を囲む手すりのそばに、自然のものよりも濃い影が、ぼんやりとした人型を取って佇んでいる。
「ご協力ありがとうございました。あなたの〈残声〉は、私が責任をもってご家族にお伝えします」
霊が頷くような仕草をして、すうっと床に沈んで消えていく。レイは黒い手帳を出して、彼の〈残声〉を書き留めた。
死に目に逢えなかった大切な人へ〈残声〉を届ける代わりに、自分の調査に少しだけ協力してもらう。どこにでも入り込める霊たちに手伝ってもらい、レイは未来死体の目撃者をもっと集めようとしていた。現状では、現場の手掛かりが少なすぎる。被害者の共通項でも見えてくれば、何か前進するかもしれなかった。
四人目の目撃者は、ロウという高校生だった。課外授業で訪れた公園の池で、ボートに乗っている時に目撃したらしい。放課後に差し掛かるころ、聞き取りのリマインドを送ろうとしたレイは、五分前に送られてきていたメールを見て、すぐに電話に切り替えた。
『レイさんですか?』
「はい。場所の変更ですね、どちらがよろしいでしょうか?」
『え? あの、消防署前のカフェに変更って、そっちから連絡があったんですが……』
「……はい? 私の番号から電話があったのですか?」
「あ、いや、レイさんの事務員さんって人からです。でも、消防署前ってカフェが二件あるんで、どっちかわかんなくて」
「……その『事務員』の電話番号を教えていただけますか」
手帳に書きとった番号を書類と照らし合わせて、レイは深いため息をついた。コンピュータの脇に、返しそびれたオレンジ色のカラビナが転がっていた。
二つのうちロウが選択したカフェは、消防署により近い方だった。もう一軒は隣のビルにあり、ジンが言っていたコーヒーのワゴンも署の隣に停まっている。この消防隊には、カフェイン中毒者が多いのかもしれない。
レイは最初に頭を下げて、色とりどりのサンドイッチの山をロウにすすめた。
「集合場所を混乱させてしまいすみません。これはお詫びですので、好きなだけ食べてください」
「あ……大丈夫ですよ。俺は別に――」
「遠慮しないでください。あなたにはご負担を強いますし……過呼吸を起こしたと聞きましたが、その後体調はいかがですか?」
「あー。もう大丈夫です」
「……それは良かった。それにしても、よくすぐに落ち着けましたね。あなたと同じものを見て、重大な事故を起こした方もいたのに」
「え……そうだったんですか? まあたしかに、呼吸は水泳部で鍛えてるからかな」
レイの胸のあたりでうろうろしていたロウの視線が、少しずつ上向き始めた。レイはさりげなく誘導した。
「さすがですね。水泳の得意な方は、空間認識や記憶力に優れていると聞きます。言われたことありませんか?」
「いや、そこまでじゃないけど……あ、でもあの時、ちょっと気になったことはあったかな。なんか、死体が二回見えたんですよね」
「……二回、ですか?」
「うん。二回っていうか、最初に見た位置と、次に見た位置が微妙にずれてた……? みたいな気がするんです。その後すぐミオ先生が俺に気づいて来てくれて、次に見た時はなくなってたけど」
「なるほど……」
サンドイッチは、気持ちの良い速さでなくなっていった。
死体の位置が、動いた。それは、単に幻覚を二回見たのか、ジンに言ったように死体自身が動いたのか、あるいは……誰かが死体を動かしたことを意味する。イオリがぶつかったという不審人物とも、関係があるのだろうか。とはいえ、ボート上にいたロウの見間違いかもしれないし、これはすぐにでも現場検証をしてみたいところだ。
しかし、そこから先は思うように進まなかった。ボート乗り場の係員は、レイの姿を見るなり目を泳がせた。
「あー、黒い手袋の人……あなたは乗せるなって言われてまして。すみません」
「誰にですか?」
係員は、チケットを整理するのに忙しいふりをした。日を改めても、同じことだった。
ロウと一緒に未来死体を見た可能性のあるミオにも話を聞こうとしたが、高校からは丁重な断りの連絡がきた。教師個人との面会判断は慎重に行っている、という建前は理解できたが、「そのように指導されています」という文言がやけに引っかかった。
おまけに、帰宅時間になると、呼んでもいないタクシーが事務所の前に現れるようになった。先払いされていた領収書の宛名を、レイは畳んで見えないようにした。
ミオとの面会は、数日後になぜか許可された。しかし、校門まで出迎えにきたミオは、興味深そうにレイを眺めつつ、背後に誰かを探しているようだった。
「お一人ですか?」
レイの指がぴくりと動いた。
「もちろんです。他に誰が……?」
「あら。実は、あなたの同僚の方から、安全上の理由で自分が行くまで待ってほしいと伝えられてまして――」
二人の背後に、車が停まった。頑丈そうな高級車から、ここ最近の頭痛の種が降りてくる。サングラスを取った彼の顔を見て、ミオがさりげなく前髪を耳にかけた。
「よう。遅くなって悪かったな」
「ジンさん」
いい加減に、レイは我慢の限界だった。
「仕事の邪魔をしないでいただきたい。そもそも私は、あなたの依頼で調査しているんですよ」
「だから、一緒に手伝ってるんじゃないか。あんたは一人にすると、またどこで足を滑らせるかわからないからな」
「余計なお世話です。迷惑だ」
珍しく怒気をこめたつもりだったが、ジンはなぜか上機嫌だった。
「わかったわかった。ほら、話を聞くんだろ? ――悪いな、お待たせしました。水難事故未遂とは、怖かったですね」
「ええ、ほんとにそうなのよ。生徒が変なものを見たらしくて、それで――」
爽やかに笑いかけるジンを、ミオがいそいそと校内へ引き入れる。レイは一切の表情を消して、仕事に頭を切り替えた。
* *
夕方から降り始めた強い雨が、消防署の外の音をかき消していた。
ジンは大量のジャガイモの山から一つを拾い上げ、皮をむいては水を張ったボウルへ機械的に放り込んでいた。調理台に降っていく皮の向こうで、肉やら野菜やらを入れた大鍋が少しずつ煮え始めている。
「――ジン。おい、ジン」
「なんだ?」
顔を上げると、リョウが洗い物の手を止めて不審そうにこちらを見ていた。
「どうした。何を『聞いてる』んだ?」
「別に。出動には関係ないから、気にするな」
「関係ないって――あ。もしかして、また誰か狙ってるのか?」
「ああ」
ジンは薄笑いして、皮をシンクへ払い落とした。
「死にそうなぐらい、綺麗な奴なんだ。だから、お前は手を出すなよ」
「出すか、あほ。いっぺんお前、うちの嫁に怒られてこい」
「おお。そりゃ怖いな」
以前紹介されたパワフルな夫人の姿を思い出して、二人の間に笑いが弾ける。しかし、まな板を泡が流れ落ちていくころ、リョウの顔からもふざけた雰囲気が静かに落ちた。
「だがジン。お前、本当に気をつけろよ」
「何がだ?ちゃんと避妊してるし、最近は男も多いぞ」
「そうじゃねえよ。お前は極端だから、いつか逆恨みでも買いそうで……不祥事でクビとか、やめてくれよな」
煮込み時間を計っていたタイマーの電子音が鳴った。リョウが手の甲でボタンを押し、目配せをしてくる。ジンは頷いたが、火は止めなかった。最低限、焦げ付かないように混ぜ続けながら、暗い目でじっと窓ガラスを見つめる。ゆがんで映った鍋の中身が、ぐつぐつと音を立てていた。
「問題ない。……手遅れになるより、よっぽどマシだ」
窓の反射の中で、リョウが振り返ったのが見えた。手を拭いて、ゆっくりとジンに近づいてくる。
「……おい。それは、どういう――?」
突然、ブー、ブー、と低い警報が消防署に鳴り響き始めた。ジンはすぐさま火を止め、リョウはスポンジを放り出した。あちこちの部屋から隊員たちが出てきて、隊服の襟元を閉じながら車庫に向かって走り出す。
「緊急消防援助隊、出場指令。西霞山郡における大規模土砂災害、ただちに応援出動せよ」
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