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第10話 夜と花の間
祭りの活気を浴びるのは、まるで強い炭酸の風呂に浸かるような気分だった。行き交うたくさんの人々、笑ったり怒鳴ったりする声。匂いも音も全部がごちゃ混ぜに流れてきて、強い刺激にくらくらする。
ジンは、そこかしこで知り合いに声をかけられていた。そして、その度にレイを彼らに紹介した。おかげでレイは、この短時間で、向こう半年に会う予定以上の人数と対面する羽目になっていた。頭の中で、整理しきれなくなってきた情報が、ばらばらと散らばっていく。ジンの同僚だというリョウにも会った。見覚えのあるその隊員は、なぜか複雑そうな顔でレイをじっと見つめていた。
「へえ……探偵さんなの」
レイに向けられる、お決まりの第一声はそれだった。遠慮のない好奇心が、顔や体の上を這い回った。だが、そのほとんどはジンの知り合いとして歓迎する色で、久しく触れてこなかった生者のコミュニティの温度に、レイは内心かなり戸惑っていた。
「綺麗なお顔だねえ。探偵って、潜入とかするんだろう? 目立ったりしないのかい?」
「いえ……潜入の時は、変装しますので」
「ええっ、見てみたい! 何でも似合っちゃいそうね」
「どんな依頼が多いんですか? やっぱり、浮気調査とか?」
「あー、ええと……」
「おいおい」
見かねたジンが、割って入ってくれた。
「あんまり質問攻めにしないでくれ。探偵なんだから、守秘義務で言えない話もたくさんあるだろ」
「はは、それもそうだよな」
「探偵さんって初めて会ったから、つい気になっちゃったわ。ごめんなさいね」
「……いえ。気にしていませんので」
レイはジンを見た。すぐに目があった彼は、思いがけないほどやわらかな表情でこちらを見つめていた。ほんの二週間前まで、最も守秘義務を無視していた男とは思えない真っ当さだ。黒い手袋の右手を軽く握りしめて、レイは彼に小さく目礼した。
出店の遊びには、子どもたちだけでなく、大人も意外なほど加わっていた。誰かの点数が発表されるたびに、たたえたり囃し立てたりする声がよく響いている。
だが、どんな遊びであっても、レイの視線は自然とジンを追っていた。まるで、サーカスを見ているようだった。落ちてくる十本の棒は目の高さで全て捕まえられ、ハンマーで叩かれたおもりは即座に最大まで跳ね上がる。彼の力が及ばなかったのは、最後の射的でたったひとつ倒れなかった的ぐらいだった。
「ああ、くそ」
ジンは大袈裟に悔しがってみせた。
「当たってはいたのにな。まあ、何事も完璧じゃないぐらいの方が良いってことだ」
「いいえ、あなたは完璧でした」
出店から十分に離れたのを確認して、レイは淡々と言った。
「あの的だけ、台に接着されていましたから。どんなに腕の良い人が撃っても、あれは倒れなかったはずです」
「……どうしてそんなことがわかるんだ?」
覗き込んできたジンの顔は、驚きつつもどこか嬉しそうだった。笑みを浮かべている彼につられて、レイの口元も思わずゆるんでいた。
「どうしてわからないと思いますか? 私は、探偵ですよ」
出店の並んだ区画を抜けると、急に潮が引くように喧騒と食べ物の匂いが遠ざかり、代わりに湿った夜の空気が流れ込んできた。ほのかに花の匂いが混ざったそれを、レイは静かに吸い込んだ。土の温度を残した風が、髪や服に優しくまとわりついた。心を落ち着かせ、体から余計な力を抜き去っていくような風だった。
二人は芝生広場を一周して、再び庭園エリアの端に戻ってきていた。横を流れる川を見下ろすように少し小高くなっているそこは、生垣に囲まれたバラ園になっていた。まだ五分咲きのためか、人はまばらだった。控えめに置かれたライトが、硬い棘や蕾を照らし出している。開いた花ばかりを無意識に目で追っていたレイは、ふとジンが川の方を気にしていることに気づいた。
「何か、気になるものでもありましたか」
暗闇に足を取られないよう、二人はゆっくりと歩いていた。川の上に覆い被さるように生えた一本の木を、ジンの手が静かに指し示した。
「ああいう木の、水深が急に変わる両脇のあたり」
ゆるく蛇行する川を撫でるように、ジンが手を動かしていく。
「それから、あそこに降りる石段の入り口。その横の、整備不良の柵。向こう岸の、ガマが群生してるあたりも」
ジンの瞳から、祭りの光がふっと消えた。
「……人が、死にそうな場所だ」
川の暗がりから視線を外し、レイはジンを見上げた。顔の半分を影にしていたジンは、レイの視線に気づくと、自嘲的な笑みを浮かべた。
「職業病だろうな。どんなところで、どんな楽しいことをしていても、そういうことを真っ先に考える。周りに、危険がないかどうか。そこで誰かが死なないようにするには、どうすればいいのか……」
「……本当に、よく見ていますね」
リップサービスではなかった。レイの目には、ジンが示した場所に残る、薄れかけたシミのような霊の痕跡が見えていた。それらの場所では、本当に人が亡くなっていた。
「そういう景色の見方は、いつからするようになったんですか?」
「さあ……覚えてないな」
ジンは肩をすくめた。
「レスキューで知識が増えてから、いっそう強くそう思うようになった。気づいて、対策をしていれば、防げる死も多いんだと。だが同時に、現実はきりがないと思い知らされる。ひとつ防護策を立てるたびに、ふたつ新しいリスクが目につく。完璧に防げることは何もない」
「それは、仕方のないことですよ」
ワイヤーで作られたアーチには、濃い赤のつるバラが巻きついていた。時期の早い品種なのか、庭園の中でここだけがほぼ満開に咲き誇っている。鋭い棘に、レイは静かに指先をのばした。
「時も、場所も、理由も。それらは死が選ぶものであって、人間が抗議できるものではないので」
「……それはそうだが」
ジンが唸った。なぜか、少し不機嫌そうだった。
「それに抵抗するのが、俺の仕事なんだがな」
「知っています。ただ、あなたが職務以上に背負ってもどうしようもないと言いたかっただけです」
指先に食い込む棘を、レイは無表情に眺めた。
「例えばここは安全に見えますが、私は一分後に自分が生きているとは言いきれません。いきなり心臓発作を起こすかもしれないし、倒れた先で運悪くワイヤーが脳に突き刺さるかもーー」
「レイ」
不意にジンが、低い声で呟いた。
「やめろ」
「全ては、可能性の話です」
レイは静かに呟いた。
「あなたが言うように、死ぬ理由はいくらでも探せる」
「……レイ」
「でも、その無数の可能性まで考えないだけです。そんなことまでいちいち想定していたら、それこそ全てを数え上げている間に、私は死ぬでしょうねーー」
突然、レイは言葉を切った。右の手首を、ジンにつかまれたからだった。
体の芯に、氷のような緊張が走った。だが、レイが振り払うよりも早く、ジンは掴んだ手を逆に引き寄せ、アーチの横にあったレンガの壁に、レイを押しつけていた。
覆い被さってくる金の瞳を、レイは呆然と見上げた。
「これは、なぜ……」
「あまり軽々しく、死ぬなんて言うな」
ジンの表情は、抑えきれない感情に歪んでいた。
「あんたがそうやって言うたびに、俺は――確かめたくて、たまらなくなる」
次の瞬間、レイは目を見開いた。左の首筋、頸動脈の上に、異様なものが触れていた。熱く、湿った、やわらかな感触。
人間の唇に、違いなかった。
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