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第12話 タナトフォビア①
三日後、レイは川沿いに建つマッチ箱のような建物を訪れていた。明るいベージュ色の外壁に掲げられた「暮雨精神医療センター」の文字が、青空を穏やかに反射している。
つるつるしたリノリウムを進んで受付に訪を告げると、すぐに二階へと案内された。待合患者の間を抜けて、診療室の隣の小部屋に入る。こぢんまりした部屋には白い書類机がひとつだけ置かれ、それを挟んで簡素な椅子とソファが向かい合っていた。何も考えずにソファへ腰を下ろしたレイは、大きくきられた窓から川を見下ろして待った。
ほどなくして、診療室側の扉が開き、一人の男が入ってきた。細身のシャツの上に、白いガウンを羽織っている。笑い皺の目立つ顔は、洗練された落ち着きに満ちていた。ロマンスグレーという言葉は、彼のためにあるようだ。同じ銀髪でも、年相応の魅力を引き立てるそれが、レイには少し羨ましく思えた。
「お忙しい中ありがとうございます、イツキ先生」
レイが差し出した黒手袋の手を、イツキは握らなかった。代わりに外側から、手の甲だけを軽く触れ合わせる。
「しばらく会わないと、すぐにそうして他人行儀になるね」
白い机の向こうに腰かけ、すらりとした脚を組んで、イツキはレイに悪戯っぽく笑いかけた。
「本来、私の方が君にそうした言葉遣いをしなければならない歳だ。そうじゃないかね、レイ?」
「……好きにすればいい」
レイは苦笑したが、すぐに本題に入った。
「それで、私が送った名簿は調べてくれたか?二人は確実として、他の者もあなたのところにかかったことがあるのか知りたい。もしそうなら、どんな診断であったかも」
「君は本当に、生きている人間のプライバシーには興味がないんだな」
イツキはやれやれと首を振った。
「もちろん、患者の個人情報を教えるわけにはいかない。だいたい、あの記録だってよく見つけたものだ。十年以上前の消防士試験の診断書なんて」
ジンとしばらく連絡を絶ったのを良いことに、レイは本人の同意を待たず、彼のことを徹底的に調べあげていた。そうして、彼が採用試験の時に、イツキの書いた診断書を提出していたことを知ったのだ。
バラ園でのジンの行動は、どう考えても異常だった。あそこまでレイに執着するさまには、もはや病的な理由があるとしか思えない。しかし、イツキの勤務先からたどり着いたこの医療センターの名は、思いがけない収穫でもあった。ここは三人目の目撃者、イオリの過去の通院先でもあったのだ。他の五人についても何か関連があるのかと、期待するのは当然だった。
「診断書の内容まではわからなかったが」
電源の入っていないモニターには、ぼんやりとしたレイの顔が映っていた。
「ここしばらく彼を見ていて、何らかの不安障害か脅迫障害ではないかと推測している。ふとしたときに、何かに怯えているような反応をするんだ。それに、確認癖がすごい。心配性が、度を過ぎている……」
「――それが、」
顔を上げると、イツキがすぐ前に立っていた。表情は穏やかなままだが、鳶色の瞳だけが笑っていない。
「それが、君に手を出した男への、君の評価なのかい?」
相変わらず、とんでもなく鋭い男だった。レイは袖口のボタンを留め直すふりをして、肩をすくめた。
「体調は? 病院には行ったのか?」
「あなたも大袈裟だな。別に異常はないよ」
「君だから心配している。カウンセリングは?」
「必要ない。まあ、長く生きていれば、犬に噛まれることもあるだろう。それだけだ」
イツキはため息をついて、椅子に戻った。卓上に置いてあったノートパソコンを立ち上げ、キーボードを叩いていく。カタカタと鳴る音が途切れたころ、イツキはレイを見て、ゆっくりと口を開いた。
「レイ。君は、タナトフォビアというものを知っているかな?」
初めて聞く言葉だった。レイは眉を寄せた。
「なんだ、それは?」
「まあ、そうだな。おそらく君が、一番理解できないだろうタイプの恐怖症だよ」
イツキの笑い声からは、もう毒が抜けていた。
「いつか訪れる死への、強い恐怖。それが想起されるとパニックになり、日常生活に支障をきたす。これは、完全に治すのがなかなか難しい。自分という存在が消えることに対する恐れ、それを避ける方法はないんだからな」
日が、机の端にたまった埃を、砂金のように照らし出していた。レイは手帳に目を落とした。
「それは……自分の死体の幻覚を見るようなことも、ありえるのか?」
「何かきっかけがあれば、可能性はある。たとえば、そういうテーマの映画を見たとか、そんなニュースを聞いたとか」
「……なるほど。その症例の患者は多いのか?」
「いや、それだけで正式な診断名になるようなものではないんだ。だから、自分がそうだと知らずに生きてる人はたくさんいる。死への恐れなんて、多かれ少なかれみんな持ってるんだから……まあ、君の共感は得られないだろうが」
「つまり、目撃者は作為的に選ばれたのではなく……大衆的に公開された何かに対して、タナトフォビアを持つ者だけが過剰に反応した結果こうなった、と。たしかに、ありえない話ではないな」
自分一人だったら、絶対に出てこなかった仮説だ。だが、本物の死体が消えたなどという線よりは、よほど現実的な話に思える。その「きっかけ」さえわかれば、どの目撃者も白昼夢ということで納得してくれそうだ。……ただ一人、そんなわけがないと言い張りそうな〈英雄〉を除いて。
ジンがタナトフォビアであるということは、レイにとって別段驚くことではなかった。人命救助も、あの行きすぎた確認行動も、彼からすればすべて死を避けるという同じ行動原理なのだろう。わからないのは……なぜそのことを、ひた隠しにするのかだ。
これまでの二人の会話には、彼の真実の表面を撫でるようなものが何度かあった。だが、そういった話題になるたびに、ジンは巧妙に本心を職務の中に隠そうとした。もし、最初からそれがわかっていたら、イツキと会うまでもなく、精神疾患路線で調査ができていただろうに……。
「……驚いたな」
顔を上げると、机に頬杖をついていたイツキが、すっと目を細めた。
「どうやら彼が痕をつけたのは、君の身体にだけじゃないみたいだね」
レイの手が、ぱっと首筋にとびかけた。しかし、途中でイツキの策略に気づき、ゆっくりと手を下ろす。イツキは、笑いながら立ち上がった。
「事務所まで送って行こうか?」
「いや、いい。私も車で来たから」
「そうか、残念。私も、今の彼にぜひ会ってみたいものだ。君の心に足跡をつけられる人間なんか、絶対に面白いに決まっているからね」
……人のプライバシーに興味がないのはそっちじゃないか、とレイは心の中で天を仰いだ。
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