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第13話 タナトフォビア②

 ドラッグストアのカゴは、持ち手が細くて持ちづらかった。洗濯用の洗剤、夕飯代わりのサプリメント、投げ売りされていた大容量のトイレットペーパー。特設されている日焼け止めのワゴンでは、日傘をさした猫のイラストが紫外線対策を訴えていた。猫も日焼けをするのだろうか。  ハンドソープの棚で、レイは立ち止まった。そういえば、そろそろ無くなるはずだ。値札を見渡して、一番安いものを手に取ったレイの動きが止まった。赤とピンクの文字で、バラの香りと書いてある。レイはゆっくりとそれを棚に戻すと、もう少し高い別のものをカゴに入れた。  あの夜、レイが意識を取り戻したのは、見慣れない車の中だった。エンジンオイルと革の匂いの中に、日向の熱の香りがする。 「レイ!」  覗き込んできた男は、車内灯の白さのせいか、かなり酷い顔色をしていた。 「大丈夫か?痛いところはないか?」 「……あなたがそれを言うんですか」   失笑しそうになりつつ、手をついて身を起こす。支えようとしたジンの手が、レイにきっぱりと遠ざけられて、所在なげにシートへ落ちた。ジンは少し俯き、また顔を上げた。 「その……悪かった」  レイは無表情に見つめ返した。 「謝るぐらいなら、なぜこのようなことをしたのですか」 「それは……」  ジンはぎゅっと眉を寄せていた。答えられないのか、答えたくないのか、どちらにも取れるような表情だった。レイはしばらくそれを見つめていたが、やがてため息をついて、ドアを開けた。路面に降ろした足は、少しふらついたが、特に問題なさそうだった。 「おい、どこに行くんだ?」 「帰ります」 「それなら送る」  ハンドルを掴む音がしたが、レイは彼を見なかった。 「必要ありません」 「ダメだ。夜は危ない」 「大丈夫です」 「ダメだ。あんたは自分がどれだけ危ないか、全然わかってない――」 「――ジン」  掴まれかけた手首を抑えて、レイは振り返った。感情のない声で、淡々と言う。 「本当に反省しているのなら、今すぐこのようなことをやめてください。あなたがなぜか私をずっと心配してくれているのは理解しています。ただ、申し訳ないが――それは私にとって、心配ではなく支配です」  絶句しているジンをおいて、レイは車を降り、バタンとドアを閉めた。 「あれ……探偵さんか?」  聞き覚えのある声に、レイは振り返った。石鹸の向こうから、がっちりした体格の男が歩いてくる。公園でも挨拶した、リョウだった。 「先日はどうも。レイさん、でしたよね」 「はい」 「……重そうですね。手伝いましょうか?」 「いえ」  そっけない応答をしてから、さすがに印象が悪いかと思い、会話を続ける。 「嵩張ってるだけなので、そこまで重くはありません。レスキュー隊の方々は、皆さん面倒見が良いんですね」 「いやいや。俺は嫁に怒られてばかりですよ。この前も、子供の弁当を間違えて職場に持って行ったりして」 「いいんじゃないですか。仕事場の食卓が明るくなりそうで」 「はは、実際そうでした」  明るく笑ってから、リョウは少し真剣な顔になった。 「それで……ジンと、何かありましたか」  レイは表情を変えなかった。指先だけがぴくりと動いた。 「なぜですか」 「いや、最近またちょっと様子がおかしいもんだから……。ずっと上の空というか、機嫌が悪いというか」  ジンは何度も電話してきていたが、レイはいっさい取らなかった。ただ、「調査が進展したら報告します」とだけ書いた事務連絡のメールを返した。日がたつにつれて、電話は次第に減っていった。 「また、ということは、前にもあったんですか」  リョウが苦い顔をした。 「実は、何度か。本人のいないところで言うのもあれだが、あいつは、なんというか……女癖が悪くて。危ない任務の後なんか特に、すぐ引っ掛けては連れ込んで……まあ、生きて帰ってきたって、実感したいんだろうなあ……」 「……そうなんですね」  さすが、長年を共にしている同僚はよく見ている。レイは少し感心しながら、ジンのイメージを頭の中に呼び出した。高い身長に、あの整った顔。おまけに、人の命を救う職業だ。相手には困ってこなかったがゆえに、今回の暴走もその延長だったのだろう。ただ、それにしては……。 「ただ、いつものジンなら、たとえ平手打ちされても、次の日にはけろっとしてるんですよ。今回はちょっと長いから、レイさんと……あ、いや、レイさんは何か聞いていないかと思って」  レイにも、それがわからなかった。土砂災害対応は確かに危険だったろうが、ジンから聞かされた話にはもっと危うい任務もたくさんあった。なぜ今回だけ、それも自分を相手に、ここまで強い反応を見せたんだろう。そもそも、ジンがレイへ異様に踏み込み始めたのは、今回の災害が起きる前からだ。  だがレイは、それをリョウに聞く気はなかった。ジンの原理は、ジンにしかわからない。 「きっと、疲れがたまっているんでしょう」  レイは静かに言った。 「お話を聞いているだけでも、大変なお仕事だ。もう少したてば、きっと元に戻りますよ」 「……そうですよね」  笑ったリョウが背筋を伸ばし、レイの手元をもう一度見た。 「本当に、お手伝いしなくて大丈夫ですか?」 「はい。お気持ちだけいただきます。ありがとう」  小さく微笑むと、リョウはうなずいて、通路を歩いて行った。レイは、カゴをゆすり上げた。棚の端にある、バラの香りのハンドソープがもう一度目にとまる。その前で少しだけ立ち止まってから、レイはくるりと踵を返し、会計へ向かった。

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