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第15話 許しの罰②
「……え?」
レイは目を瞬いた。
「どうしてそれを……?」
「俺は、耳が良いんだよ」
ジンはずるずるとソファに沈み、意味もなくドーナツをゆらゆらと振った。
「生きてる奴のたてる音なら、どんな小さな音でもかなり遠くまで聞こえる。生まれつきだ。今、あんたの胃が動く音だって、瓦礫の下の生存者の息だって……署の近くの、精神科やカフェでの会話だってな」
「……なるほど。そういうことだったんですか」
事故現場で、ひっくり返った車に耳を寄せていたジンの姿が蘇る。思い返せば、廃屋でも、バラ園でも、ジンは常にレイの「音」を気にしていた。……余計な記憶まで蘇りそうになり、レイは小さく咳払いをした。
レイの表情に何を見たのか、ジンはすぐに弁解した。
「盗み聞きしたのは、悪かったよ。でも、俺がいない間に、またあんたが無茶するんじゃないかと心配だったから」
「それでは、あのスパムメールの話も、もう知っているんですね?」
「ああ。俺のところにも何回も来てた。俺じゃないって思いたくて細かいところまで見ちまったし、画面が変にちかちかして眠れなくなるし……最悪だったな」
ジンは顔を顰めて、ぬるくなり始めたコーヒーを一口飲んだ。ついでのように、目でドーナツを促されたが、レイは首を振り、ため息をついた。ようやく、仮説の最後の裏が取れた。これで、事件はほぼ決着だ。
だが、もっと喜ばしい気持ちになってもいいはずなのに、なぜかレイはすっきりしなかった。原因は主に、この男のせいだ。
「どうして最初から言ってくれなかったのですか? あなたが死体は実在したと言い張るから、私は物証を探し回っていたのに」
ジンは乾いた笑い声をあげた。
「言えるわけないだろ。大の大人が、死ぬのが怖いって大騒ぎした挙句、妄想と現実の区別もつかなくなったなんてな」
レイは、笑わなかった。黒い手帳を閉じて、テーブルの上に置く。
「差し支えなければ、教えてください。タナトフォビアを自覚したのは、いつからだったんですか?」
「気がついたのは、中学の時かもな。……母親が、亡くなったんだ」
ジンは笑みをおさめていた。海岸の砂つぶを数えるような、淡々とした声だった。
「小さい頃から、自分が消えてなくなる瞬間を想像するたびに、何度も布団を蹴っ飛ばしていた。それこそ、死ぬほど怖がってたんだ。それでよく、母親のところに逃げ込んでた。でも中学の時に、その最悪な日があって……パニックを起こした。それで、イツキのところに連れて行かれたんだよ」
その「最悪な日」について、ジンはそれ以上説明しようとしなかった。レイも、聞かなかった。
「まあ、そういうわけだ。黙ってて悪かったが、この話は他の奴に言わないでくれると助かる。なにせ、〈英雄〉様がそんな弱かったなんて知られたら、レスキュー隊の信用もガタ落ちだからな」
声はおどけていたが、ジンはレイの方を見なかった。長い指が、ドーナツの輪に食い込んでいる。背筋を丸めたジンは、心なしかいつもより小さく見えた。彼が、最も知られたくなかった姿。それが、おそらくこの恐怖なのだろう。
だが、レイにしてみれば……それは、ただのジンだった。
「どうしてあなたは、それを弱さだと思うのですか」
「……え?」
うつむいていた顔が、ゆっくりとレイを見上げた。上腕の筋肉に、僅かに力がこもる。廃校でレイを抱え上げ、公園でレイを庇った腕だった。
「死を恐れることは、自然なことでしょう。むしろ、人より強くそれを恐れてきたあなただから、それだけ多くの命を救ってこられたのではないのですか」
揺れる金の瞳を、レイは真っ直ぐに見つめていた。
「だからあなたは、これからも強く死を恐れて、強く生きていけばいい。――そういう人間を、私は強いと思います」
ジンは、まじまじとレイを見ていた。まるで、とても眩しいものを見ているかのようだった。やがて、少し気まずくなったレイは、手袋の袖口を軽く引っ張った。
「もちろん、だからといって、他人に好き勝手するのはどうかと思いますが……」
「それは完全に俺が悪い」
ジンはすぐさま言った。口元には、いつもの笑みが戻ってきていた。さっと立ち上がって床に膝をつき、こうべを垂れるポーズを取る。
「もう、ああいうことはしない。いや、しないように努力するから――」
「いいえ」
しかし、レイは首を振った。
「先ほどから言っていますが、あなたが問題だったのは、その恐れを最初から言わなかったことです。だから私は、あなたに支配されているようで不快だった」
「わかってる。だから――」
「逆に言えば、もう知ってしまったので、私はなんとも思いません。――次からは、好きなようにしてください」
「……は?」
ジンが、顔を上げた。驚愕に染まった顔は、たったいま戦車に轢かれたが、何が起こったのかわからないという表情をしていた。
「あんた……何言ってんだ……?」
「ええと、ですから」
レイは首を傾げた。そんなに難しいことを言っただろうか。
「許可を与えると言っています。あなたが一番言いたくないことを教えてくれたので、そのお返しといいますか……。これから先、怖くなったら、私のところにきていいです。この前のようなことも、好きにすればいい。ただし、仕事の邪魔はしないでください」
「待て……待ってくれ」
ジンは、立ち上がっていた。拳を握り締め、息が激しくなっている。彼はバラ園の後に車で見た時より、よほど悲壮な顔をしていた。
「あんた、本気で言ってるのか? この前は俺もかっとなってたが、別に無理やりしたいわけじゃなくて……!」
「ええ。ですから、次からは私の同意があるので、問題ありません。私は自分の身体に、なんの愛着もありませんので」
「……でも……でも、」
絶句しつつも、ジンはなんとか言葉を探しているようだった。
「もし、また俺が暴走したらどうするんだ? 今度は、本気であんたを傷つけるかもしれないのに」
「その時はその時です。でも、死ぬようなことはしないでしょう。あなたは私に死んでほしくないんじゃなかったんですか?」
「そう、だが……」
「では、問題ないでしょう」
レイはテーブルを見渡した。コーヒーは、すっかり冷めていた。握りつぶされかけたドーナツが、紙ナプキンの上に転がっている。ジンは崩れるようにソファへ戻り、両手に顔をうずめていた。
「どうして……どうしてあんたは、そこまで……」
せっかくレイが譲歩したのに、ジンの声に滲むのは、確かな絶望だった。
「あんたは怖くないのか? 自分が傷つくのも、自分が失われるのも――あんたは死が、怖くないのか……?」
「……ふふっ」
レイは、思わず笑い声をたてていた。ジンの肩が、かすかに震えている。
なんと幼く、純粋な問いだろう。
「怖ければ、よかった」
ドーナツに手を伸ばしながら、レイは軽やかに言った。
「あなたと同じように、死が怖いと思えたなら。そうすれば、私は――生きていることが、もっと幸せに感じただろう」
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