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第19話 空に昇る声①
緑の増えてきた景色が、飛ぶように後ろへ流れていく。うだるような暑さのせいで、車内から見る外気は、強い彩度のわりにどこか枯れて見えた。吹き出し口から流れ出す冷房の強い風に、レイは少しだけ目を細めた。
ジンの手がのびてきて、空調のつまみをひねった。風の勢いがおさまり、車内が少し静かになる。ジンがちらりとレイを見た。
「寒かったか? 歯が鳴ったのが聞こえた」
「いえ、そこまでは。……でも、ありがとうございます」
「ああ」
静かに礼をつぶやくと、ジンは満足そうに頷いて、ハンドルを軽くたたいた。
「そろそろサービスエリアがある。休憩したいか?」
「どちらでも構いません」
レイはまた外を眺めた。分岐が近いのか、周辺が混み合い始めてきて、ジンの車も速度を落としていた。車間距離やカーブへの注意看板が、いくつも目に入ってくる。その中には、ごくたまに黒いシミのついたものもあった。
「運転手はあなたです。あなたが疲れを感じる前に、休んだ方がいいかと……」
太腿に、温かい手が置かれた。車内に目を戻すと、ジンは片手でハンドルを操りながら、前方をじっと見ていた。
「あんたは、どうしたいんだ?」
「……え?」
レイは不意をつかれた。
「私、ですか?」
「そうだよ。俺の気分は別として、あんたは休憩したいのか?」
「考えていませんでした」
「知ってる。だから聞いてるんだ」
レイは口を開いたが、すぐには言葉が出てこなかった。ヒントを探すように、再び窓の外を見て、また助手席の物入れに目を戻す。沈黙はレイを急かさず、ただ静かに待っていた。
「……それでは、コーヒーを飲みに行きましょう」
「了解」
軽い笑い声とともに、体温だけを残して、ジンの手が膝から離れていった。
夏休みのサービスエリアは、人でごった返していた。子供連れの家族が手をつないで道を渡り、大型バスから連れ立って降りてきた学生たちのにぎやかな声がエンジン音の間に響いている。施設案内を告げる軽快なアナウンスが遠くに聞こえていた。
先にトイレから出てきたレイは、裏手の植え込みの陰に移動して、小さく息をついた。白い夏の雲が、まるで百年前のどこかから百年後のどこかに流れていくように、ゆっくりと形を変えながら空を渡っていく。それを見ながら、未来から来た死体のことを思い出して、レイはわずかに眉を寄せた。
事件は幕を閉じたはずだが、レイはいまだにどこか違和感を溶かしきれずにいた。イツキは、自覚していないだけでタナトフォビアの気を持つ者は多いと言っていた。だが、今回の目撃者には、全員はっきりと既往歴がある。やはり、そこまで強い恐怖症を呈さないと、幻覚を見るまではいかないのだろうか。あるいは……。
背後に、見知った気配が立った。
「夕方ごろは、雨になるかもな」
「どうでしょうね」
空気の匂いをかいでいるジンに、どっちつかずな頷きを返す。
「このぐらいの風なら、夜までもつかもしれません。あのシュークリームがもう少し大きくなったらわかりませんが」
「……シュークリーム?」
「あれです」
レイは、山の右上の方を漂う雲の塊を示してあげた。しかし、ジンはますます怪訝な顔をした。
「そういう雲の通称なのか?」
「いいえ。私がつけました」
「……あんた、食べたいのか?」
「いえ、まったく。こういう遊びは、しませんでしたか?」
「ああ……経験ないな」
何ともいえない顔で、ジンは手すりの上に肘を乗せた。熱い金属の表面を這う小さな虫を捕まえ、日陰側に移動させてやってから、レイに倣って空を見上げる。
「それならあれは? 羊とかか?」
「うーん……オイルタンクでしょうか」
「……へえ。なら、あの横長のやつは?」
「シーラカンスに見えます」
「その下の、変な形の塊」
「人体模型でしょう」
レイは首を振った。
「さっきから、私ばかりだ。あなたは何か思いつかないんですか?」
「ないな」
ジンはあっさりと言った。
「こういうのは、発想力だ。あんたの方が得意に決まってる」
「そうですか」
首筋をじわりと汗が伝い、レイはハンカチでそれをおさえた。布地にしみ込んだその雫を、ジンはじっと見つめていた。彼の首筋にも、汗が光っていた。蝉の声が、急に大きくなった気がした。
「……そろそろ、行きましょうか」
なんとなく目をそらすと、ジンも身を起こした。
「ああ。コーヒーを探さないとな。入口あたりのエリアにあるだろ」
「はい。……ただ、」
中途半端に言葉をとぎらせたレイに、ジンが振り返った。レイはちらりと空を見上げてから、にぎやかな雑踏を眺めて、独り言のようにつぶやいた。
「シュークリームも……食べたくなってきましたね」
「……そうか」
ジンはなぜか一瞬真顔になったが、すぐに笑みを浮かべた。
「それじゃ、そっちを先に探しに行こう」
出口ゲートの向こうには、緑の山々が見えてきていた。
* *
ロビーを満たす落ち着いた香のかおりには、古い木と埃のにおいがかすかに混ざっていた。斜めに置かれた革のソファや、陶芸品を収めたアンティークの棚が、格式高い大人の空間を演出している。元気のいい大学生たちも、さすがに音量を落として話していた。
「あ、レイさん」
輪の中から、カナが手を上げてレイを招いた。
「ちょうどよかった。今からやるので、見ていてもらえますか」
「わかりました。点呼ですね」
「はい。名前でやれば、大丈夫なんです。でも、番号でやると絶対に数が合いません。いきますよ」
六人の学生たちが、合図をし合って姿勢を正した。
「一」
「二!」
「三」
「……四」
「五」
「六」
「七。ほら」
レイは、ジンと顔を見合わせた。
「お前、二回返事してたぞ」
「え?」
腕組みをしたジンが、ハルに顎をしゃくった。しかし、ハルは驚いたように手を振った。その背後には、一か月前にも見た霊が佇んでいる。ここでは、大学で見たよりもさらに輪郭がはっきりし、不気味なほど背が高くなっていた。
「してないですよ! え、俺してないよな?」
「うん。ハルは五の一回だった」
「てかみんな一回でしょ」
奇妙なことに、どの学生も気づいていなかった。もう一度やっても、同じことだった。ジンが証拠のために回した動画を見てさえ、毎回誰かが二度返事していることを、誰も指摘しなかった。
レイは、学生たちの方へ頭をかがめている霊をじっと見つめた。レイの視線に気づいたのか、霊がぐるりと首を回した。ひたり、ひたりと足を出して、廊下の奥の方へ歩いていく。
「ジン」
霊から目を離さずに呼ぶと、ジンはすぐに寄ってきた。
「なんだ?」
「今から、私は〈残声〉を探してきます。その間、学生たちを監視しておいてもらえませんか」
「監視……?」
「今見たとおり、ここには強力な霊がいます。私は影響されませんが、彼らに何かあるといけませんので……」
カナが見つけてくれた古い記録から、レイは今回の件に関して、すでにある程度の仮説を持っていた。それが正しければ、霊がこれ以上派手な騒ぎを起こすとは思えないが、万が一があってはいけない。
しかし、そこまで言ってから、ふとレイはジンを見た。
「そういえば、あなたも影響されませんでしたね」
ジンは鼻を鳴らして、腕組みをした。
「当たり前だ。生きてる奴の声を、俺が聞き間違えると思うか?」
「……そうでしたね」
知らず、口元に笑みが浮かぶ。
「それでは、ここはあなたにお任せします。でも、もし異常があれば迷わず私を呼んでください」
「了解。……あんたもだからな」
力の入ったこぶしに気づかないふりをして、レイはロビーを後にした。
廊下を進むレイの足音を、分厚い絨毯が消していった。少し褪せた壁紙の凹凸が、弱い間接照明に影を作っていた。古くから続く建物には、あちこちに死の影が染みついていた。
建物をつなぐ外の回廊に出ると、木の床板が小さくきしんだ。回廊が抜けていく中庭の端は、ひっそりとした影に沈んでいた。人々のざわめきも、ここには一切届いていなかった。建物全体が、息をひそめていた。近くで、かさりと葉が擦れた。風が吹き抜け、いくつかの影が揺れる。……誰もいない。
旅館の裏手には、川が流れていた。じゃく、じゃくと砂利を踏みしめる音だけが、せせらぎの中に響いていく。水辺に近づいたところで、レイは足を止め、建物を振り返ってみた。外壁は、塀と垣根が複雑に入り組んだ形をしていた。大きく張り出した屋根は急で、雪が積もったら雪崩を起こしそうだった。梁の隙間に、持ち主のいない蜘蛛の巣がかかっている。
その一角に、背の高い霊が佇んでいた。
近づいていくと、霊は場所をあけた。その場所からは、旅館の前を通る車道が見えた。シャトルバスが客を下ろすための、錆びた目印の看板がある。
レイは、右手の手袋を外した。屋根の下に膝をつき、基礎の石に触れて、目を閉じる。
痛みが胸を突き刺したとき、一つの〈残声〉が静かに立ちのぼり、淡雪のように薄れて消えた。
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