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第21話 空に昇る声③

 シャワールームから出ると、涼しい部屋の空気にため息が漏れた。先ほどの温泉も良かったが、筋トレ後はやはりさっと汗を流したくなる。そういえば、温泉でレイの姿は見なかった。部屋のシャワーで済ませたのだろうか。  目を閉じて、意識を広げかけたところで、ジンは首を振り、代わりに携帯を引き寄せた。 『今、部屋行っていいか? もう寝るところなら気にするな』  返事は、一分ほどで来た。 『ご自由にどうぞ。鍵はかけていません』   不用心すぎる。ジンはさっとシャツをかぶり、急いで部屋を出た。  まだシーツすら乱されていない部屋は、まるで人が泊まっていないかのようだった。洗面所にかけられた白いタオルだけが、部屋にわずかな湿度を灯している。  レイは、外へ張り出した縁側のようなところにいた。ゴザに座って、少し下を流れる川を見下ろしている。まるで三途川でも前にしているような横顔に、背筋が少し寒くなった。だが、恐ろしい時こそ、この青年の近くにいたほうが安らげるということを、ジンはもう知っていた。  隣に腰を下ろすと、レイがなぜか苦笑した。 「なんだ?」 「運動でもしてたんですか?」 「あ……臭うか?」  ジンは慌てて腕を持ち上げた。 「悪い。シャワーは浴びたところなんだが」 「いいえ。ただ、熱気を感じたので」 「それは、暑苦しくて悪かったな」  ジンはようやくニヤッとした。 「だが、鍛えてれば誰でも代謝はよくなる。あんたに半分あげたいぐらいだ」 「謹んで遠慮します」  レイの拒絶は、穏やかだった。  夜の濃い大気の中を、川はとうとうと流れていた。虫の声が、せせらぎの音に混ざって流れていく。空は新月で、星がよく見え、雲が間に少しだけ散らばっていた。 「良い宿でしたね」 「ああ」  縁側のふちには、漆塗りのトレイが置かれていた。のせられていた菓子の包みは、中身が空になっている。 「今どきの大学生は、こんなところに泊まるもんなのか? 値段を見てびっくりした」 「わざわざ調べたのですか。業務付帯とはいえ無粋かと思い、私は見ませんでしたが」 「いや、俺は自分で払ったんだぞ」 「……え?」  ござの端から出た糸をつまんでいたレイの指が止まった。ジンは肩をすくめた。 「あんたと違って、俺は勝手についてきただけだ。まあ、払おうかと申し出てはくれたんだが」 「断ったんですか?」 「俺は、謎解きに来たわけじゃないからな。ただ……あんたと、離れたくなかったから」  口にしてみると、その言葉は案外素直に響いた。氷の色をした瞳が、静かにジンへ向けられた。感情の読めない顔だった。 「あんたに頼まれてないのは、わかってるよ」  ジンは続けた。 「でも、街からこれだけ離れてたら、何かあってあんたが万が一俺を呼んでくれたとしても、俺はすぐに行ってやれない。あんたは自分に何があっても怖くないのかもしれないが、俺は――あんたに何かあったら、怖いんだよ」  レイの表情が、はっきりと動いた。しかしそれは、感謝や嬉しさの表情ではなかった。最近レイは、たまにこの顔をした。まるで、久しぶりの人里に戸惑う仙人のような顔だった。  風が木々を揺らし、二人の間に白い花をいくつか落としていった。レイの視線をたどって、ジンはその一つを拾い上げた。小さな見かけによらず、甘く強い香りの花だった。 「あなたの行動原理が、少しわかった気がします」  ようやくレイが呟いた。 「あなたは「聞こえる」のに、どうしてしつこく触れようとまでするんだろうと思っていた……自分の手が届くことを確かめて、安心したいのですね」 「……まあ、そうだ」  レイは、これまで二回の肌の触れ合いのことを、暗に語っていた。声に咎める響きはなかったが、だからこそ胸がざわついてしまう。ジンはレイと反対側に手をのばし、花をもう一つ拾った。 「だから俺は、二歳児を尊敬してるんだ。とりあえず口に入れて確かめるのが一番手っ取り早いって、あいつらは知ってるんだからな」  わざと軽口に寄せると、背後で、狙い通りにレイが苦笑してくれた。 「ずいぶんと二歳児が野蛮に思えてきますが」 「そうか?」  ジンは笑みを浮かべ、木目の上に花を二つ並べた。 「動物の本能を、なめない方がいい。結局はそれが、生きのびるのに必要な能力だったんだから」 「そうですね」 「俺からすれば、人間はちょっと油断しすぎだ。もっと動いて、もっと感じられるようになった方がいい。その方が、いざっていう時に絶対――」  ジンは、不意に言葉を途切らせた。  背中に、何かが軽く当たっていた。やわらかくて、体温を持っていた。  自分の呼吸が一気に浅くなったのを、ジンは感じていた。まさか、と、もしかして、がせめぎ合っている。目だけで素早く見回すと、レイの手は自分から離れたところにあった。しかし、彼の気配は、これ以上ないほど近くにあった。角度からして……レイの背が、少しだけ自分の背に触れているようだった。  抑えきれない何かが込み上げてきて、胸の奥を熱く濡らした。  触れ合っているのは背のほんの一部だった。もしかしたら、レイも気づいていないのかもしれない。だが、ジンは振り返れなかった。振り返れるわけがなかった。わずかにつながった生のぬくもりを、絶対に手放したくなかった。  ジンは目を閉じて、ぐっと口を引き結んだ。たしかなレイの鼓動が、耳から、そして触れ合った背から伝わってくる。 「星が、綺麗ですね」  呟くレイの静かな声が、夜を渡って優しく染み込む。ジンは、しばらく返事ができなかった。 「……ああ」  ようやくそれだけを口にして、彼と共に夜空を見上げる。  無数にまたたく星の光が、どこまでも続く夏の夜を、永遠のように昇っていった。

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