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第22話 時の手形①

 頭の上からすっと何かが退いた気配で、レイは目を開けた。見渡す間でもなく、ハンサムを絵に描いたような顔が目に入ってくる。 「おはよう」 「……おはようございます」  レイは瞬きして、身を起こした。 「なぜあなたが、私の部屋にいるんですか」 「覚えてないのか?」  ジンはこれ見よがしに、色のあるため息をついた。 「昨日の夜は、あんなに積極的だったのに」  レイは、思わず布団をめくった。服は、ちゃんと着ていた。  ジンが笑い出した。 「冗談だ。鍵の場所も言わないであんたが眠り込んだから、出るに出られなくなっただけだ」 「それなら別に、開けたまま出ていけばいいのに……」  ジンにじっと見つめられて、レイの声は小さくなっていった。先に目を逸らしたのも、レイだった。  朝日の差し込む部屋は、快適な温度に保たれていた。持ち物は、全て昨日のままの位置にあった。一枚だけ、使った覚えのない毛布がソファに引っ掛けられている。 「寝苦しいところで、寝かせてしまいましたか」  呟くと、ジンが眉を上げた。 「別に、快適だったぞ。忘れてるなら言うが、俺はレスキューだ。地上十五メートルに張ったロープの上だって眠れる」 「……そうですね」  つられて苦笑し、サイドボードの時計を確認する。 「朝食に行きましょうか」 「ああ、着替えてくる。待っててくれ」  やわらかに笑った金の瞳を見送って、レイはもう一度、朝日をそっと吸い込んだ。  レストランには、落ち着いた木目調のテーブルが並んでいた。壁際に並んだ銀の蓋はすべて開けられており、色とりどりの料理が湯気を立てている。  皿を山盛りにしているジンの横で、レイが取ったのは三品だけだった。野菜スープ。炊き立ての白米。それから、小さく切られたガトーショコラ。 「レイさん、足りるんですか?」  隣に座ったカナが、目を丸くした。ジンが大袈裟に賛同した。 「もっと言ってやってくれ。タンパク質がなさすぎる。せめて魚ぐらい食えばいいのに」 「後でサプリメントを飲むので問題ありません。それに、魚には骨がありますので」 「骨取るの苦手なんですか?」  カナの向かいで、ハルが笑った。 「意外です。探偵さんって、器用なイメージがあったんだけど」 「器用かどうかはわかりませんが、単に面倒なだけです」  本当は、前に骨を喉に詰まらせて苦労したからなのだが、余計なことは言わなかった。  しかし、再び白米に箸をつけようとしたところで、向かいからすっと魚の切れ端が皿に乗せられた。 「それ、骨ないぞ」  証明するように、ジンは残りの半分を自分の口に入れた。 「あったとしても、よく煮てあるから大丈夫だ」 「そうなんですね」  さすが、いいところの宿は、かけてある手間が違うようだ。納得したレイは、煮汁がガトーショコラにつくまえに、魚を口に入れた。二人のやりとりを、カナとハルはなんとも言えない顔で見ていた。 「ところで、昨日の謎は解けたんだな?」 「はい!……って、なんで知ってるんですか?」  驚くハルに、ジンはにやりとした。 「昨日、遅くまで騒いでただろ。俺は耳がいいんだよ」 「それに、昨日はずっとあの木札を持ち歩いていたあなたが、今日はもう持っていません」  レイも呟くと、ハルは降参したように笑った。  部員たちは寝不足を感じさせず、生き生きと話していた。辺りを見渡しても、霊の姿はもう見えなかった。ハルは、親友が来週には大学に戻れそうだと、嬉しそうに話してくれた。残ったレイの作業は、書面上の報告手続きを済ませるだけだ。 「そういえば、秋の学祭はぜひきてくださいね」  カナが、ルームキーを持って立ち上がった。 「今年の謎は、頭だけじゃなくて体力も使うコースを考えているんです。かなり面白くなると思いますよ」 「自信があるみたいだな。探偵とレスキュー隊員がやっても、充分楽しめる難易度なんだろうな?」 「おお、そう言われるとハードル高いですね」  ハルが笑った。 「でも、来ていただきたいのは本当です。今回のアイディアは……昨日一日、レイさんとジンさんを見ていて、俺が思いついた内容なので」 「……私たち、ですか?」  目を瞬くレイに、ハルがピアスを揺らして頷いた。どこか、大人びた笑みだった。 「はい。なので、ぜひお二人で来てください。待ってますから」  ジンが、レイを見た。レイも、無言で見つめ返した。三ページも先の手帳に何かを書き込むのは、妙な気分だった。それでも、悪くはなかった。 「ええ」  レイはハルに向き直った。口元が、自然とゆるむ。 「楽しみにしています」  ハル、カナ、そしてジンの顔を通って、窓の外へと視線を移す。大きなシュークリームのような雲に、濃い緑が揺れていた。鼻の奥には、早くも秋の風が香り始めていた。  *  *    残暑の日差しが、来客用ソファの端をオレンジ色に焦がしていた。  軽い足音が、事務所の階段を上ってきた。レイは眉をひそめた。今日は、何のアポもなかったはずだ。それに、最近のジンは来る前に必ず連絡をよこしてくる。音もなく開いたドアの向こうに、レイは思わず立ち上がった。 「イツキ先生?」 「やあ、レイ。今、ちょっといいかな」 「……どうぞ」  ロマンスグレーの精神科医は、にこやかにソファへ落ち着いた。いつもの手順で、レイはコーヒーを淹れ、小皿を出した。ジンが勝手にストックしていた、チョコレートクッキーが役に立った。 「急にすまないね。驚いただろう」 「ああ。急用なのか?そうでないなら、メールでも入れておいてくれればよかったのに」 「そうしたかったんだが……」  イツキは、どこか危険な笑みを浮かべた。 「証拠を残したくなくてね。守秘義務的にどうかという相談をしようとしているから」 「……どうしたんだ?」  レイは、無意識に背筋を伸ばしていた。イツキはコーヒーを一口飲んで、話し始めた。 「最近、私の担当で、少し気にかかっている患者がいるんだ。基本的な診断は不安障害で、投薬と行動療法で通院してもらっている。ただ、先週の診療中に、彼の目が少し……おかしくなってね」 「おかしく、とは?」 「目が……左右別々に、動き始めた。左目は私を見ているのに、右目は壁のカレンダーを見ている。かと思えば、右目と左目が完全に見つめ合って、正面にはほとんど白目みたいに……」  窓の外を、車が通り過ぎていく音がした。イツキのコーヒーから、細い湯気が立ち上っている。 「検査は?」 「眼科と脳神経外科には異常なしと言われたらしい。つまり……」 「なるほど。「霊憑き」の疑いがあるということか」  レイは淡々と頷いた。 「しかし、それなら私よりトワを頼った方がいいんじゃないか?私は霊は視えるぐらいで、多少の意思疎通はできても無理やり追い出すまでは――」 「――そして、彼の不安障害の中にはタナトフォビアがあり……昨日、自分の死体を見たと報告があった」

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