23 / 37
第23話 時の手形②
「……なんだって?」
部屋の温度が、急に下がった。レイは、鋭く目を光らせていた。
「あのサイトは閉じたはずだ。何か他にきっかけがあったのか?」
「私が聞いた限りでは、特に思いあたらなかったな。だが、霊のこともあるし、探偵の君なら……」
イツキの声が、静かな事務所を漂った。レイは、険しい顔で考え込んでいた。閉じたはずのファイルのどこかに、重要な契約書を挟み忘れたままにしているようだった。サイトの閉鎖を確認してから、新たな未来死体の目撃情報はこれが初めてだ。もしや、他の目撃者も霊憑きだったのだろうか?しかしそうなると、またもやジンが例外だ。合宿で彼は、霊の影響を全く受けていなかった……。
「わかった」
レイはようやく顔を上げた。
「その患者を、調査してみよう。尾行したいから、氏名と人相、必要な個人情報を全部教えてくれ」
「ほら、こんなこと、メールに残せないだろう?」
イツキは笑いながら、レイが渡した手帳を受け取り、自分の手帳と付き合わせてすらすらとペンを動かした。
「だが、引き受けてくれて助かるよ。患者には心苦しいから、診断情報は調査が終わったら削除してくれ。ところでこれは、私が君に調査料を払った方がいいかな?それとも、情報提供で君から謝礼を受け取るべきかな?」
「……私は心理学者ではないが、そう口にする時点であなたがどちらもする気がないのはわかる」
「はは、そうか」
レイは顔を顰めて、手帳を受け取った。立ち上がったイツキの目が、壁際に積まれた非常食に向けられた。
「まあ、これ以上悩みを増やすのはやめておこう。君の番犬に怒られそうだ」
「私の、ではないんだが……」
ぼやきかけて、レイはふと目を上げた。イツキが、思いがけず優しい表情でこちらを見ていた。
「レイ」
静かな声が、事務所に染み込んだ。
「――良かったね」
何が、と聞くのは、自分の首を絞めるだけだった。レイは無言で視線を逸らし、テーブルに目を落とした。黒い手帳は、皿の上のクッキーとよく似た色をしていた。
* *
ターミナル駅の広場には、灰色の曇り空が広がっていた。ロータリーの中にたつ銅像の周りは、待ち合わせをしている人が鈴なりになっている。
学生らしき青年が、手すりに寄りかかり、うつむき加減に携帯をいじっていた。だぼっとしたネイビーのシャツにベージュのクロップドパンツをはき、くたびれたスニーカーの紐が緩んでいる。ロゴの入ったキャップの下で、黒に近い茶髪があちこちにはねていた。右肩に、中身の入っていなそうなリュックをひっかけている。
そして両手には、肌に近い色の、薄い手袋をしていた。
駅から吐き出されてくる人波に探していた姿を見つけ、レイは姿勢をそのままに携帯の電源を落とした。キャップのひさしの下から、対象の顔を避けて腰のあたりをじっと見つめる。先週から変わり映えのない、冴えないスーツ姿の男だった。恰幅の良い体格のわりにせかせかしていて、歩き方ですぐそれとわかる。男――ナギが銅像から十分に離れると、レイはおもむろに立ち上がって歩き出した。
視界の隅で、あるいは店のウィンドウに映った姿で対象を捉えながら、レイは歩道にスニーカーを擦った。ナギはずいぶんと早足で、きょろきょろとあたりを見まわし、何度も髪に手をやった。急に立ち止まり……振り返る。
レイは同じペースで歩き続けてナギを追い越し、角を曲がったところで自然に靴紐を直した。いつもなら霊に追跡させるが、霊憑きを起こす対象には使えないのが残念だ。だがあの様子からして、おそらくは待ち合わせだろう。それも、初めての道で焦っている。汗を拭う時間も必要……だとすれば。計算したタイミングで表通りに戻ると、一ブロック先を歩いていく後ろ姿が見えた。
ナギが入っていったのは、オープンテラスの洒落たカフェだった。後を追って入る直前に、レイはキャップを取り、だぶだぶのシャツをさりげなく脱いだ。下に着ていた襟付きのポロシャツ姿で、隅の席へ静かに着席する。ナギはテラスに近いところで、別の男と挨拶を交わしていた。保険屋か、不動産の営業のような男だ。飲み物もそこそこに、クリアファイルを挟んでさっそく話を始めた彼らを尻目に、レイは手帳を取り出した。
この一週間を思い返しても、結局真相はよくわからなかった。たしかにナギには薄れかけた霊が憑いていたが、三日目あたりにレイが軽く肩をぶつけてみただけで、すぐに離れていった。それ以外は、いたって普通の人間だ。行動範囲はだいたい決まっていて、そのルートのどこにも、未来死体を連想させるような刺激はない。
レイは目の隅で、もう一度ナギたちをじっと見つめた。どうやら、医療保険か何かの勧誘のようで、ナギが何度もハンカチで汗を拭っている。タナトフォビアの人間にとって、ああいうものは断りにくいのかもしれない。だが、引き攣ったように愛想笑いをしているナギの顔を、レイはどこかで見たことがあるような気がした。祭りのとき、ジンに矢継ぎ早に紹介された誰かだっただろうか……。
「――うわっ」
ガチャンと派手な音がして、レイはとっさに手帳を持ち上げた。青いソーダが、テーブルの上に広がって泡を残した。通り過ぎざまに肘を当ててしまったウェイターが、平謝りした。
「大変申し訳ありません!」
「大丈夫です……っと、」
店の注目が集まっているのを感じて、レイは顔を伏せる口実にわざとゆっくりかがみこみ、床に落ちたグラスを拾った。
「すみません、新しいものをお持ちします」
「あー、いや大丈夫です。ほとんど飲んでたし、僕もそろそろ行くんで」
視界の端では、ナギたちの足が出口に向かおうとしていた。心の中で、レイは臍を噛んだ。もしかしたら、今のせいで何か聞き漏らしたかもしれない。だが、そんなことはおくびにも出さず、レイは落ち着いて会計を終え、再びだぶだぶのシャツを羽織って店を出た。
ナギが自宅への帰路についたのを確認して、レイは尾行を解除した。キャップを取り、少し汗ばんだウィッグを軽くもみながら、駅へ向かって歩いていく。ナギをつけ始めてから、そろそろ十日が経とうとしていた。霊落ちしたことを、いったんイツキに報告した方がいいかもしれない。未来死体との因果は、まだわからないままだが……。
その時、ふと目に入った看板のポスターに、レイは硬直した。
ポスターには赤い字で「探しています」と書かれていた。ジャケットを着た、恰幅のいい男性の写真が写っている。写真が苦手なのか、カメラに向かって引き攣ったように笑っているその顔は、どう見てもナギにそっくりだ。しかし失踪日は、今から三ヶ月も前のことだった。
背筋に、冷たい汗が流れた。
レイは携帯を素早く操作し、警察から公開されている失踪者データベースを呼び出した。ナギに似た男の写真は、上から三番目にあった。しかし、スクロールする指はそこで止まらなかった。名前にも年齢にも心当たりがないのに、外見だけは見覚えのある者が次々と出てくる。髪の長い、勝気な顔の女性。神経質そうな、初老の紳士。プールバッグを持った、男子高校生。そして……大柄でたくましい、ハンサムな顔の男性。
「……ジン」
感情の消えた声が、雑踏の中に落ちた。
「――どうやら私が、間違っていたようです」
ともだちにシェアしよう!

