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第25話 飲み込めない花蜜②

 森田地区は、治安の悪いごみごみした場所だった。ちらほら通り過ぎる人々は皆急ぎ足で、人と目を合わせないように歩いている。古い家屋が多く、全体的に彩度の低い街並みを、夕日が黒とオレンジに染めていた。 「子供がいないですね」 「ああ」  レイの呟きに、ジンが頷いた。 「こんなところ、大人だって警戒する。特に、夜は危ないだろうな」  ジンはレイから腕半本分ほどの距離を歩いていた。鋭い目が油断なくあたりを見回し、時折レイに手を伸ばしかけては、こぶしを握って手を下ろす。それを視界の端に押しやりながら、レイは建物の陰をひっそり行き交う霊たちの姿を観察していた。だが、消えかけているものが多く、協力を頼むのは難しそうだった。  トタン屋根の廃屋と、折れ曲がったガードレールの目立つT字路で、レイは立ち止まり、辺りを見渡した。目撃情報は、ここが最後だった。さびれた看板の陰に、まだ少し輪郭のはっきりしている霊が見える。 「すみません。最近ここで、殺された人を見ませんでしたか」  虚空に向かって話すレイに、ジンが身を固くした。しかし、人型の影は、肩をすくめるような仕草をして、そのまま離れていってしまった。目で追っていたレイは、近くの廃屋の扉が少し開いているのに気が付いた。取っ手のあたりに、消えかけた灰色のシミがついている。  隙間から覗き込んでも、中は暗くて良く見えなかった。もう少し身を乗り出そうとすると、横から小さいキーホルダーのようなものが差し出された。 「使うか?」 「……ありがとうございます」  指先でスイッチを押すと、意外なほど強力な光が廃屋の中を照らし出した。散らばった瓦礫に、蜘蛛の巣、一つだけ残った椅子。 「何もなさそうですね」  レイはライトを返そうとしたが、ジンは視線をそらした。 「あんたが持っててくれ。まだしばらくは使うだろ」 「……では、そうしますね」  レイも、すぐに視線を外した。今は、ジンを見ているより、霊を見ている方が楽だった。  しかし、それから一時間ほど歩き回ったが、〈残声〉はどこにもなさそうだった。輪郭のはっきりした霊を見つけるたびに声をかけていたが、無視されることがほとんどだ。暗くなり始めた空を、カラスが急いで飛んでいく。 「水飲むか?」  ガードレールにもたれて休憩していると、喉の鳴った音でも聞こえたのか、ジンがボトルを差し出してきた。レイは丁重に断り、ぼんやりと道路を眺めた。 「なかなか、収穫がないですね」  ジンが頷いた。 「まあ、失踪場所で殺されたとは限らないよな。それに、他の七か所もまだ確認するんだろ?」 「はい」  本音を言えば、この地区ももう少し歩き回ってみたかった。だが、今日のジンの様子では、これ以上長くとどまることはできそうにない。もしほかの場所でも手掛かりがなければ、彼が当番の日に一人で戻ってくればいいだろう。  ふと目を落とすと、ひび割れたアスファルトの隙間で、小さな黄色い花が咲いていた。レイはかがんでそれを摘むと、何気なく口に運ぼうとした。 「――おい。何やってるんだ?」  ジンの手が、レイの腕にとんだ。レイは眉を寄せて、彼を見上げた。 「何って……普通に、食べようかと」 「花を? やめろ、毒があったらどうするんだ」 「この花は大丈夫ですよ。前にも食べたことがあります」 「前にも……いや、そういう問題じゃない。だいたい、不味いだろうが」 「いいえ。決めつけでものを言わないでください」  レイは少しむきになった。 「花というのは甘いんです。それに、香りもいい。あなたは知らないだろうが、私の方がよほど……」  言い募りかけて、ふと我に返る。これでは、子供が駄々をこねているようだ。吹き抜けていく風の中で、黙ってお互いに見つめ合う。  先に口元を緩めたのは、どちらが先だっただろうか。 「わかったよ。俺が悪かった」  ジンは、レイの手首を放した。肩をゆすって笑うその顔は、いつもの彼だった。 「ドーナツの次は花か。なんでもいい、あんたがちゃんと食ってるならな」 「……いいえ」  レイは小さく首を振った。出会ったばかりのころの、執拗にドーナツを食べさせようとしてきたジンを思い出す。ジンにしてみれば、終わったはずの事件がまた頭をもたげ、しかも自分に似た人間が殺されていたのだ。タナトフォビアでなくても、十分こわいはずだった。 「私の方こそ……すみませんでした」 「いいって」  ジンは手を伸ばして、もう一度レイを引き寄せた。視界を遮る彼の体温に、少しだけ身を固くする。顔が寄せられた肩のあたりから、何かを嗅ぐように息を吸い込む音がして、満足そうな低いため息が聞こえた。 「……こういうことを平気でする人間が、どうして今日まで警察に突き出されていないのか、不思議に思いますよ」  ため息交じりに言うと、ジンはニヤッとした。 「あんたは突き出すのか?」  レイは無言でそっぽを向いた。風が、夜の匂いを運んでくる。ジンの穏やかな呼吸を聞きながら、レイは返事の代わりに静かに言った。 「聞こえましたか? ……私の音は」  あたたかな息が、耳元を優しく揺らした。 「ああ。聞こえた」  *  *  森田地区を皮切りに、手掛かりのない日々が何週間か続いた。  高く抜けるような秋空に、朝の涼やかな風が吹いていた。遠く広がる海は穏やかな青色をしていて、埠頭を洗う波がちゃぷちゃぷと静かな音をたてている。平べったい巨大な倉庫が、白くくすんだ波のように、陸の方へ何列も連なっていた。  日向のコンクリートへ線を引いたような倉庫の影が、ちょうどレイのフリルシャツとスラックスの境目に落ちていた。手帳にメモをとりながら、レイはちらりと太陽の位置を確認した。マリの未来死体となった犠牲者は、一番奥のC18倉庫での作業を最後に失踪していた。だが、他の現場と同じように、ここでも〈残声〉は見つかっていない。被害者は、ここからどこに移動したんだろう……。  レイは手帳をぱらぱらとめくった。先月のメモの端に、鉛筆で走り書きした日付が目に止まる。ハルとカナの明るい顔が浮かび、口元が自然とゆるんだ。  もう一度倉庫の窓から中を覗き込んで、レイは埠頭へ向かって歩き出した。手帳をしまったポケットの中で、小さなキーホルダーを掴み、無意識にスイッチをカチカチと鳴らす。午後、ナギへの聞き込みの前に、一度事務所へ戻るつもりだった。  しかし、最初の角を曲がったところで、レイはいきなり足を止めた。  倉庫と倉庫の間、高い壁でできた通路の端に、何か――誰かが倒れていた。腹部が激しく損傷し、手足がありえない角度にねじれている。  それ以上、近づくまでもなかった。大柄な体に、兵士のような黒髪。オレンジ色の隊服。そして――見覚えのある、コーヒー店のカップ。  ジンだった。

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