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第26話 休息①

 海風が倉庫の間を吹き抜け、立ち尽くす青年の銀髪を無言で揺らしていた。落ちていく一秒が、百年のようだった。日常の中に突然落ちてくる、世界の色を変えてしまうような衝撃。タナトフォビアを持たない人間にとっても、死とはそのようなものだ。  だが青年は、知人の死体に悲鳴をあげて逃げ出すには、あまりに死に慣れすぎていた。  レイは携帯電話を取り出した。死体から一瞬も目をそらさずに、ゆっくりと歩み寄りながら、これまで一方的に受けていた番号を初めて呼び出す。無機質なコール音が白い虚空に響くのを、レイはただ黙って聞いていた。 「ーーレイ?」 「ジン」  知らない間に詰めていた息が、静かに喉から抜けた。電話の向こうの声が急に鋭くなった。 「どうした? 何かあったのか?」 「落ち着いて、聞いてくれますか」  淡々と言いながら、ポケットの中でライトを握りしめる。 「ようやく調査が進みそうです。今、あなたの遺体に遭遇しました」  「……なんだって?」   二十分で行く、という言葉を残して電話は切れた。レイは暗い目で死体を見つめた。損傷はしているが、確実に防腐処理されている。これを行い、ここに運んだ者の、とてつもない執念と狂気が滲み出ているようだった。  通路にいたのは、レイと死体だけではなかった。倉庫の壁に、人の形をした影が落ちている。レイがその霊と意思疎通を図ろうとしていた時、騒々しい足音が響いてきた。 「レイ!」   ジンはオレンジ色の隊服を着たままだった。 「大丈夫か?」  「はい……あ、」   一直線に駆け寄ってきたジンが、死体に気づいてひゅっと息をのんだ。レイは思わず足を出して、ジンの視線から死体を遮るように立った。 「すみません。あなたには耐えがたい光景のはずだ。よければあちらでーー」 「いや、いい。でも、少し時間をくれ」  肩で息をしながらも、ジンは死体ではなく、ひたすらレイを見つめていた。レイはうなずき、そのまま待った。金色の視線が、レイの輪郭をむさぼるようになめていくうちに、少しずつジンの呼吸が落ち着いてくる。しばらくして、ようやくジンは息をつき、それから小さく笑みを浮かべてみせた。 「不思議なもんだな。あんたみたいに全く怖がらない人間がいると、こっちもいくらか冷静になれる。それに、よく見ると……確かに、俺とは全然違うな」  ジンは胸に手を置き、遺体に頭を下げた。 「はい。それから、あなたが最初に見たご遺体とも違う人物のはずです。あなたから聞いていた話と、損傷部位が違います」 「……じゃあ、これは誰なんだ?」 「それを、今から確かめます」  レイは壁に映る死者の影をじっと見て、右手の手袋を外した。  ジンがまじまじと見つめる前で、白い指先があらわになった。黒いスラックスの片膝をついて、死体の上にかがみこむ。音の消えた心臓の上に、レイは二本の指を直接置いた。そのまま静かに目を閉じる。  波と風の音が上の方に遠ざかり、ここにないはずの音が近づいてきた。ザッ、ザッと草木をかき分けて進むような足音がしている。不規則に乱れるのは、山道かどこかだからだろうか。突如、わめき声がして、足音が走り出した。鋭い金属音、ののしりあう声、息が詰まる音、そしてーー   お馴染みの痛みが、レイの胸を突き刺した。 「ーーおい!」  レイは驚いて目を開けた。ジンがすぐ横にしゃがんで、レイを支えていた。レイはすぐに立ちあがろうとしたが、ジンは離さなかった。 「あんたの歯が鳴った。どこが痛いんだ?」 「落ち着いてください」  レイはひとまず手袋をはめなおした。素肌が隠れて、ようやく息をつく。しかし、ジンが納得していないのを感じて、説明を付け足した。 「別に怪我をしたわけではありません。今のはただの代償です」 「代償?」   ジンの声が緊迫した。よくない兆候だったが、レイはそれに気づかないふりをした。死体の腕につけられた、彼と同じ腕時計がやけに目につくようだった。 「残声を聞くのは、境界を越えて死に手を伸ばす行為です。生きている肉体に、なんの代償もなしというわけにはいかない。でも、大したことではありません。私の生の、おそらく一日か二日分ぐらいーー」 「待ってくれ。レイ……まさか、あんた」 「あの、痛いです」  肩に食い込む指を指摘したが、ジンは止まらなかった。大きな体の震えが、そこから伝わってくる。 「まさかあんたは、残声を聞くたびに自分の命を削ってるっていうのか…?」  ほとんど悲鳴だった。突き刺すような悲しみが、ジンから溢れ出してくる。それは、指に締めつけられている肩よりも、よほど痛かった。……痛く感じるように、なってしまっていた。 「どうして……どうしてそこまでする?そんなことを、あんたはなんで――!」 「ジン」  レイは静かに名を呼んだ。 「あなたには、私は何歳に見えますか」  ジンが拳を握った。 「まだ22、3だろ」 「そうでしょうね。しかし、数え間違えていなければ――私は今、239歳なんですよ」  気が付けば、その呪いはレイの口から滑り出ていた。聞いたジンよりも、言ったレイのほうが驚いていた。だが、一度明かしてしまえば、堤防から漏れ出した水が、みるみるうちに穴を広げていくようだった。言うつもりのなかった、自分の中にあると知らなかった言葉が、どんどんこぼれていく。 「生きても、生きても、終わりが見えない……この厄介な力を使いでもしなければ、私の終わりはいっこうに来ないんだ。死よりも生が苦痛だというこの感覚は、あなたにはわからないでしょうね」  激しい衝撃を受けたように、ジンは顔を歪めていた。だが、それに何かを感じる余裕は、今のレイには残っていなかった。 「私にはわからない。あとどれだけの間、この道を歩き続ければいいんですか。あとどれだけの人の死を、見つめ続ければいいんですか」  ジンが、何かを言いかけた。だが、レイは強く首を振った。言葉は、たたきつけるような勢いになっていた。 「だから、あまり私に深入りしないでください。あなたがどれだけ苦しもうと、私の手は死に触れるもので、私の口は死と話すためのものだ。私がすること、語ることはすべてーーいつか、私がきちんと死ぬためのものだから」  言い切ると同時に、レイは立ち上がった。反射的に上がったジンの手を振り切り、彼から離れて大きく息を吸う。……一瞬、自分を抑えられなかった。  レイは息をついて、忘れる前に〈残声〉を書き留めておこうと手帳を取り出した。 「……申し訳ないが、今の話は他言無用でお願いします」  ペンのインクがうまく出ず、文字が掠れた。 「変な噂が広がると、後々面倒なので。さて、ご遺体のことですが――」  レイは、いきなり言葉を切った。手のひらで塞がれた視界の向こうに、日向の匂いが香った。  大きな身体が、後ろからレイを強く抱きしめていた。 「……ジン、」 「――じゃあ、休めよ」  肩のあたりから、くぐもった声がした。まるでジンが、レイの身体ではなく、命そのものを抱きしめているようだった。 「動物はな、歩かなくなっても狂うし、休まなくなっても狂うんだ。だから一人で歩くのは、しばらく休みにしたらいいじゃないか。俺が、一緒にいる間ぐらい――俺が、生きてる間ぐらい」  驚愕に見開かれた氷色の瞳の上から、ジンの手のひらが静かにどけられた。肩越しに見つめあった金の瞳が、短い彼の生そのものを、真っ直ぐに差し出そうとしている。  一瞬だけ、雨上がりの朝のように、景色のすべてから、鮮やかなきらめきがしたたり落ちた。 「……初めて見る顔だな」  ジンが微笑んだ。ロープだこのある手が、レイの銀髪をさらりと乱した。たった31歳にそうされていることをなんとなく意識してしまい、レイはさりげなくジンから身体をはなした。 「私の顔は、どうでもいいでしょう」  もう少しだけ息を吸って、無理やり頭を切り替える。 「それより今は、現場が優先です。ご遺体の話をしてもいいですか?」

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