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第30話 炎の示す先に③

 店主の男は、いつもの深緑のエプロンを外しただけの格好で、そこに立っていた。青空の下では人の良い愛想笑いが、ここだと奇妙に歪んで見える。 「どうやって、ここまでいらしたんですか」  注文を聞くような何気ない声は、合成音声のようだった。 「まさか、こんなところまでコーヒーを飲みにきた訳でもあるまいし。タナトフォビアの〈英雄〉と……オカルト詐欺師の探偵さん?」 「この野郎――!」  ジンが唸って前に出ようとした。レイは片手で彼を制し、男に向かって頷いた。 「なるほど。それが私の前にジンの死体を置いた理由ですか」  スラックスのポケットの中で、小さなライトが太ももに触れているのを感じる。 「朝から、ずっと不思議でした。私はタナトフォビアではないし、保険金詐欺の標的にするにはたいした財産もないはずだ。どうやら私は、個人的にあなたの恨みを買ったようですね」  男は笑みを貼り付けたまま、じっとレイを見つめていた。彼が答えないので、レイは眉を寄せて小さく首を傾げた。 「私は何かしましたか? あなたの他の関心で言うと……やはり、ジン絡みでしょうか。彼が保険詐欺に引っ掛からなかったから、私が入れ知恵してると思われたか。しかし、それなら、私が幻覚と間違って結論づけたところでやめれば良かったのに、わざわざ死体をまた見せた理由がないですね。そんなもので、私が恐怖するわけがないのに――」 「それですよ」  不意に、男が遮った。 「人が最も恐れるべきもの。あなたはそれを、恐れないふりをしているから」 「……もしかして」  口を開いたのは、ジンだった。 「もしかして……あんたも、タナトフォビアなのか?」  男の目が、細くなった。 「一緒にしないでいただきたい。本物の恐怖は、症名をつけて管理できるようなものじゃないんですよ」  一言ごとに、口調が冷たくなっていく。 「いつか自分が無になるということ……当たり前にしている呼吸、存在、世界のすべてがなくなり、それを認識できる自分すら消えるという、絶対に避けられない運命……」  男は表情こそ穏やかだったが、瞳が徐々にあやしい光を放ち始めていた。 「残念ながら、誰も私ほどにはその恐ろしさをわかっていない。あなたもですよ、ジンさん。本当に怖いなら、なぜ他人を助けに行くんですか。私はどこで何人死のうと自分じゃなくてよかったと思うだけですよ」  ジンは、関節が白くなるほどこぶしを握っていた。男は、冷めたコーヒーのような笑みを浮かべた。 「だから私が、皆様に見せて差し上げているんです。それで皆、初めて思い知る。私が感じている恐怖が、どれほどなのかを。本当に死を前にした瞬間、本当に自分の死を見たと思った瞬間……その顔を見るたびに、私は安心します。ああ、私だけではなかったのだと」 「……狂ってる」  ジンが呟いた。 「本当に、あんたは狂ってる……」 「それで、私が腹立たしかったわけですね」  レイは冷静にうなずいた。 「てっきり、あなたの仕事の邪魔をしようとしたから、恨まれているのだと思いましたが」 「もちろん、それもあります」  男は肩をすくめた。声の調子が、微妙に変わっていた。  ふいに、レイは首筋の毛が逆立つのを感じた。ジンの身体も、とたんにこわばった。 「ですから、これ以上のお話は後にさせてください……」  男の手が、ポケットに入れられた。 「――今は、仕事がありますので」  次の瞬間、床の三か所の鉄板が一斉に開いた。穴の一番近くにいたレイに、とっさにジンが覆いかぶさって熱気から守る。そのままジンは、レイの腰のあたりを抱え上げてシャッターの近くに退避させたが、その時には男が被害者のロープに手をかけていた。その手には、刃物が握られている。  間に合わないと知りつつ、レイは男に手を伸ばした。 「やめろ――!」  ドンッと鈍い音が響いて、店主と女性が別の方向に吹き飛ばされた。何が起こったのか、わからなかった。レイの目に、いくつかの情景がコマ送りのように映る。穴のふちで、腕を振り回しながら落ちていく男。意識を取り戻して、恐怖に目を見開いている女性。そして、炎のオレンジ色に照らされたジンが、その間に膝をついて腕を押さえている。  カランと刃物が落ちる音とともに、男の絶叫がこだました。 「ジン――!」  レイは急いで駆け寄ろうとしたが、ジンは大丈夫だと目で合図してきた。抑えた手の下には、血の色も見られない。代わりにレイは立ち止まり、ゆっくりと穴に歩み寄った。  男は、鉄板の裏の取っ手に、かろうじてぶら下がっていた。斜め下の方に、赤く黄色くゆらめく光が見える。傾斜が付いた投入路に触れた靴底が、すでに溶け始めていた。すさまじい形相で、言葉にならない悲鳴を上げ続けている男に、レイは感情のない声で呟いた。 「……これが、あなたの抱えてきた恐怖でしたか」  炎と熱気を通して、レイの目にはこの半年で見てきたたくさんの姿が映っていた。マリの顔。震え続けるイオリの手。無念な死者たちの霊と、その影に怯える生者たち、そして……鬼の形相で事務所に飛び込んできた、レスキュー隊の〈英雄〉の姿が。  男は渾身の力で体を揺さぶり、穴のふちにあったレイの靴に手をかけようとした。レイは眉一つ動かさず、足を退けることもしなかったし、手を貸そうともしなかった。苦しげなうなり声が、徐々に弱くなっていく……。  そのとき、横から伸びてきた手が、力強く男の腕をつかみ、片手で引き上げた。勢いあまって床に投げ出された男は、そのままシャッターの前まで転がり、壁に激突して止まった。その拍子に何かのスイッチに触れたらしく、シャッターがゆっくりと開き始める。レイは驚いて振り返った。 「……ジン」  ジンは無言で、レイの足に素早く触れ、あざになっていないか確かめた。レイは、思わず呟いていた。 「なぜ、あなたは――?」 「レイ」  ジンは膝をついたまま顔を上げ、レイをまっすぐに見据えた。 「さっきも言っただろう。俺の前では、誰も死なせないと。誰であろうと、助けるのが俺の仕事。裁くのは、警察の仕事だ」 「……はい」  真面目な顔で告げる彼に、何とも言えない気持ちがこみあげてきた。それをごまかすように、レイはシャッターの近くで伸びている男をちらりと見て電話に手を伸ばした。 「すぐに警察を呼びましょう。それから、救急も。この方々を病院に運ばないといけません」 「ああ、そうだな」  ジンは立ち上がった。 「ここにはもう、他に人間はいない。退避ルートを確保してくるから、あんたは落ちないように動かないでくれ」 「いえ、それなら……」  気絶した男の身体を探って、レイはリモコンのボタンを押した。鉄板が元に戻り、地獄の蓋が口を閉じた。  シャッターが開いたおかげで、室内の温度はだいぶ戻っていた。通報を済ませたレイは、部屋を後にする前にジンが縛り上げていった男の顔を、しばらく無表情に眺めていた。それから、すっと視線を外し、被害者の様子も確認する。女性は、ショックのためか、また気を失っていた。レイは落ちていたナイフを拾い上げ、彼女のロープを解き始めた。  一通りの作業を終えると、レイは処刑場のようだった部屋から通路に出た。煌々とついた電気が建物を照らし、闇がいくぶんか軽くなっているようだった。ようやく全てが終わった実感に、思わず重いため息が漏れる。  ジンが戻ってくると、レイはお礼を言った。 「ありがとうございました」 「ああ。これで、俺たちが出るのも警察の捜査も、楽になるだろう――」 「いえ、そうではなく」  レイは静かに言うと、右手を差し出した。黒い手袋に包まれたそれを、ジンは驚きの表情で見ていた。 「ジン」  レイは彼をじっと見上げた。 「あなたに頼まれた調査でしたが、たくさん手伝っていただきありがとうございました。――あなたと仕事ができて、光栄でした」  ジンが、ぐっと顔をゆがめた。ゆっくりと手を伸ばして、そっとレイの手を握る。――そして不意に、その手を握ったまま、自分の方へぐいと引いた。  とっさに反応できずに、躓きかけたレイを、広い胸板が受け止めた。  「……レイ」  耳元で、低い声がした。 「――今日は、俺の家に泊まってほしい」  レイは、目を見開いた。思わず顔を上げると、狂おしいほどの光をたたえた金の瞳がこちらを見ていた。 「あんたが嫌じゃなければ……ダメか?」  レイの唇が、わずかに震えた。まるで部屋から逃げたはずの熱気が、ジンにつかまれた手を通して、勝手に心臓へ戻ってきたようだった。 「……着替えを取ってきたいので、一度私の家に寄ってください」  とうとう目をそらして、レイはそれだけをつぶやいた。

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