32 / 37

第32話 満ちゆく胎動②

 海辺の窓が似合いそうなオレンジの織物のカーテンは、先ほど夢中で引っ張ったせいで、妙な角度に捩れていた。その向こうで、明け方の空が徐々に白み始めている。カーテンの縫い目の隙間から針でついたように差してくる光を、レイはぼんやりと見つめていた。 「大丈夫か?」  ベッドのスプリングが沈み、浴室の匂いとともに、横からコップが差し出された。礼を言って、一口飲む。湯の温かさが胃に沁みて、小さな息がこぼれた。ジンが、安堵したように笑った。 「不調があったらすぐに言ってくれ。まあ、あれだけしっかり後始末したから、大丈夫だとは思うが――」 「だから……いちいち、口に出さないでください」  レイは呻いて、コップをジンに押し付けた。 「それより、あなたは今日、当番の日ではなかったですか」 「ああ。だから、あと三時間ぐらいしたら出勤する」  平然と時間を確認するジンは、まるで疲れを見せなかった。 「でも、あんたは好きなだけ寝ていってくれ。なんなら、明日の朝、俺が戻るまでいてくれてもかまわないから」 「いいえ、少し寝たら帰ります。昨日の事情聴取の続きに出頭して、報告書も書かなければ」 「……わかってるさ」  残念そうに頷いて、ジンはレイの肩を軽く押した。頭の後ろを手のひらで支えられながら、背中がベッドにつく。布の優しい重みが、そっとレイの身体を覆った。 「でも、まずは寝ろよ。慣れないことしたから、疲れてるだろ」  レイはゆっくりと瞬きした。強がる気にもなれないほど、気だるい疲れが全身を地に引っ張っていた。  瞼が下がってくるままに目を閉じようとしたところで、レイはふとジンがまだこちらを見つめていることに気が付いた。 「なんですか」 「いや……」  ジンは逡巡したが、物問いたげな視線は、シーツから覗くレイの手元に向けられていた。 「それ、寝る時もしたままなのか」  シャワーの後、レイは再び黒い手袋をはめなおしていた。レイが黙っていると、ジンが静かに言った。 「寝づらかったら、外せばいい。俺は、絶対に触らないから」  しばらく、レイはジンを見つめていた。やがて、おもむろに右手、左手と手袋を外し、枕の横にきちんと重ねて置いた。ジンに背を向けて横になり、シーツの端を軽く握って、今度こそ目を閉じる。  部屋を満たす呼吸が、徐々に深く、穏やかになっていった。シーツに横たわる白い手を、ジンはいつまでもじっと見つめていた。  *  *  ハッ、ハッと忙しない息が顔にかかり、レイはさりげなく身を起こした。ふわふわした毛並みの向こうで、中年の男性が慌ててリードを引く。 「ごめんなあ兄ちゃん! ほらお前、ワンじゃないだろ、落ち着こうってば」 「いえ、お気になさらず」  ぶんぶんと尻尾をふっているゴールデンレトリバーの身体をもう一度撫でて、レイは立ち上がった。公園の道を転がってきたピンクのボールを男性に渡す。男性は何度も頭を下げながらそれを受け取った。 「ありがとう。こいつ、いつもならコントロール上手いのになんで急に……いや兄ちゃんに怪我させなくて良かった」 「一緒に遊ぼうと、私を誘ってくれたのかも。怪我はないです、ありがとう」  悪びれない顔に期待を浮かべてこちらを見つめてくる犬に、レイは少しだけ微笑んでみせた。誰に止められようとえんえんと懐へ飛びこもうとし続けるその姿は、同じようにしつこい一人の男を思い出させた。リードを握った男性に引かれていきながら、道を曲がって見えなくなるまで、犬は何度もレイを振り返った。  木々の影が長くのび始め、オレンジ色の夕日が目に眩しかった。そばのベンチが強い光に照らされて、くっきりとした陰影を浮かび上がらせている。レイはしばらくそれを眺めていたが、やがて少し首を振って歩き出した。警察署から事務所にもう一度戻るより、その辺で書類の整理をしようかと思ったのだが、外は少しやりにくそうだった。  足の向くままに歩き続けたレイは、気がつくと見覚えのあるカフェに来ていた。以前ロウに聞き込みをした、メニューの豊富な店だ。テラス席に座り、通りの向こうに見える消防署をぼんやりと眺めていると、ウェイターがカプチーノを持ってやってきた。白いミルクの泡の上に、青いエディブルフラワーが浮かべられている。レイは一口飲んで小さく息をつくと、鞄から書類を取り出した。  焼却場に安置されていた遺体の身元が次々に判明し、警察ではかなりの大騒ぎになっていた。遺体にはあの店主が殺した者だけでなく、他の殺人事件の犯人が処分に困った遺体を横流ししていたケースもあったらしい。保険金詐欺だけでなくそこでも大金を得て資金繰りをしていたようで、動機の主軸をそちらに置くつもりだと、馴染みの検察ははりきって話していた。だが、あの炎に炙り出された、店主の根源的な恐れを目の当たりにしたレイは、黙って口を閉ざしていた。  すっかりお馴染みになった八人分の調書に、万年筆で取消線と修正事項を加えていく。忙しく動いていたレイの手が、黒髪のハンサムな男の写真に自然と止まった。身体の奥にじわりと熱が生まれそうになるのを、意識して押さえつける。  二日前に彼の家で夜を過ごしてから、レイはまだジンに会っていなかった。メールはよく来ていたし、ジンも事情聴取を受けていたはずだが、事件の後処理で忙しいからとさりげなく顔を合わせなかったのだ。  ジンとの関係をどうすべきなのか、レイはまだ結論が出せていなかった。普通に考えるなら、事件は終わったのだから、このまま他人に戻ればいい。だが、ここまでしつこくレイに踏み込んでくる人間は初めてで、それを完全に突き放すことができないでいる自分に、レイは危機感を覚えていた。あんたはどうしたいんだ、というジンの声が聞こえた気がした。 「……わかりません」  レイはぽつりと呟き、片手で額を支えた。 「あなたが決めてくださいよ。最初に、勝手に立ち入ってきたのは、あなたなんだから……」  風が冷たくなり始めていた。修正を終えた調書を鞄にしまったレイは、カップの底に溜まった僅かなミルク色を飲み干し、立ち上がった。久しぶりにこんなものを飲んだら、余計に腹が空くようだった。骨のない魚の切り身でも売っていれば、夜はそれを買って帰ってもいいかもしれない。  駅への近道をしようと路地に入る手前で、レイは消防署の方をちらりと見た。リバイブ・コーヒーのワゴンは、消防署脇の広場の隅で、あの日からずっとシャッターがしまったままだった。店主が逮捕されたのだから当然だ。あの若い店員だけでは、営業も移動もままならないだろう。  そこまで考えて、レイはふと足を止めた。さきほど見たワゴンの位置は、二日前にジンと張り込みをしていた時とは少し違ったように見えた。キーは店主が持っているとすれば、いったい誰が動かしたんだろう。証拠集めに警察が入ったか、行政が動かした可能性もある。だが、もしそうでなかったら……?  先ほどから後ろに聞こえていた足音が、急に早くなった。  首筋の毛がぞわりと粟立った。レイは反射的にかけ出そうとしたが、一歩も踏み出さないうちに手遅れだと直感した。急激に距離を詰めてきた足音が、背後で何かを振りかぶる。  振り返った直後、硬いものが頭を直撃して、レイはあっという間に何もわからなくなった。

ともだちにシェアしよう!