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第33話 生と死の音①
ジンはコーヒーを片手に、明け方の青い部屋を歩き回っていた。制服、タオル、洗面用具、下着は今日は二枚。ポットのコンセントを抜こうとしたところで、机の方で電話が振動した。すぐさま取り上げて画面を見る。表示された名前は期待していた人物ではなく、ジンは少しがっかりした。
「なんだ、リョウ」
『おはよう。随分な挨拶だな』
電話の向こうから呆れたため息が聞こえた。
『さっきの隊長からの連絡見たか?』
「ああ。河川訓練のやつだろ。ちゃんと準備してる、心配するな」
『それならいいが』
リョウの口調が軽くなった。
『昨日も一昨日も、持ち物がおかしかったから、今日も何かやらかすんじゃないかと思ってな。引越しでもするのか?』
「まあ、そろそろしてもいいんだが……」
寝室に入ってきたジンは、広い部屋を見渡した。妙な角度に引っ張られたままのカーテンに目が止まり、自然と口元がゆるむ。
「……いや、まだいいかな。今の距離は、わりと気に入ってるから。もうちょっと近くてもいいのは確かだが」
『引っ越すなら言えよ。手伝いに行ってやるから』
「よく言うよ。お前はその後の酒が飲みたいだけだろ」
『バレたか。まあ、とりあえず後でな』
軽口を叩き合って電話を切る。腕時計を確認すると、もう出勤時間だった。ベッドの隅に置いたままの客用の枕にもう一度視線を投げてから、ジンは気合を入れて家を後にした。
* *
ぽちゃん、ぽちゃん、とどこかで水音が響いている。
レイは、小さく呻きながら意識を取り戻した。右のこめかみのあたりがずきずきと痛み、触ると熱を持っている。顔を顰めて身を起こすと、周りにいた死者の霊たちが、すっと退く気配がした。
そこは、古い物置小屋のようだった。暗くてよくわからないが、湿ったカビと、錆びた金属の匂いがする。壁には鉄格子のついた分厚いガラス窓が一つだけあり、そこから弱い光が差し込んでいた。
窓の向こうには、一人の若い青年が佇んでいた。不気味なほど微動だにせず、無言でこちらをじっと見つめている。愛想笑いを取れば印象に残りにくいその顔に、レイはゆっくりと頷いた。
「やはり、あなたでしたか」
青年が、ようやく動いた。小さく首を傾げて、下の方から受話器をとる。窓のこちら側にも同じ受話器があることに、レイは初めてきがついた。耳に当てると、聞き覚えのあるコーヒー店員の声がした。
『おはよう、レイさん』
「おはようございます。今日はエプロンはしてらっしゃらないのですね」
『はい。あなたのせいで』
感情を声に乗せず多くを語らないという点では、青年はレイといい勝負だった。レイはため息をついて、自分から質問することにした。
「共犯の可能性は、私も考えなかったわけではありません。どうやって警察の聴取から逃れましたか?」
『簡単です。僕は店長の共犯ではありませんから』
青年の目は、レイから一瞬も離れなかった。
『店長は、僕に一回も手伝わせてくれませんでした。僕には全てを与えてくれた人なのに、僕からは何も受け取ろうとしなかった……』
話している内容よりも、青年の眼差しの方が、レイをなんとなく落ち着かない気分にさせた。感情を殺しているのではなく、そこには感情が抜け落ちていた。何もない、荒れも揺れもしない、空っぽの瞳。まるで、昔の自分自身を覗き込んでいるようだった。
『……でも、あなたがいれば、ようやく僕もお手伝いすることができます。探偵のあなたなら、どんな人間でも探せるのだから……。レイさん。店長の残りの仕事を、一緒に片付けませんか。そう約束してくれるなら、そこから出してあげます』
「それが今後の殺人に与しろという意味であれば、お断りします」
一呼吸もあけずにそう返したレイに、青年が初めて身じろぎした。
『……あなたは、本当に何も怖くないんですね。その状況でもそう言えるとは』
「はい」
レイは毛ほども表情を変えなかった。レイにとって、監禁は何の脅しにもならない。たとえこの男性の寿命が尽きるまで閉じ込められていようが、いっこうに構わないのだ。その前にジンが……誰かが気づいてくれるだろうし、策を練る時間はいくらでもある。
しかし、青年は肩をすくめた。
『まあ、そうですよね。それでは、こちらにします』
天井の方で、ガタンと音がした。反射的に振り返ったレイは、続いて響き始めた音から何が起こったのかを悟り、さすがに目を見開いた。
部屋に、水が流れ込んできていた。
水は天井の穴から壁を伝って、勢いよく溢れ出していた。ほこりを吸い込むサー……という音とともに、長い巻きひげのように床を這って押し寄せてくる。
『本当を言うと、僕はこちらの方がよかったんです』
受話器から、青年の声がした。
『店長にも、見せてあげたかった。本当に最期のとき、あなたがどんな顔をするのか……。でも、どうせあなたは、面白くないのでしょうね』
壁の方で、何かが落ちる音がした。積んであったものが、崩れるような振動が響く。
『おそらく、もって二時間ほどだと思います』
青年が窓ガラスに一度だけ触れた。
『電話が使いものにならなくなるのは、それより早いでしょう。気が変わったら、僕を呼んでください』
それだけを言い残すと、背を向けて通路を去っていく。
無言で立ち尽くすレイの足元に、死がひたひたと迫り始めていた。
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