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第34話 生と死の音②

「三番、行け!」 「はい!」  川に投げ入れられたダミー人形に向かって、リョウが一直線に泳いでいく。それを見ながら、ジンはまたもやポケットに手をやり、何もないことを思い出して唇を噛み締めた。  休憩時間に一度だけ覗いた携帯電話のせいで、ジンはどうにも落ち着かなかった。レイは面倒がりつつも、仕事人間なのが幸いしてなんだかんだ連絡は返してくれる。昨夜送ったメールにこの時間まで音沙汰がないなんて、初めてのことだった。ようやく仕事以外の枠に入れたのか、と喜んでもいいが、どうもそうではない気がする。 「ロープ、引け!」 「――はい!」  鋭い号令で我に返り、すぐさま手を素早く交互に手繰って、全速力でロープを引く。救命具に繋がれたダミー人形が無事に岸へ引き上げられるのを見ていると、水を滴らせたリョウが近づいてきて小声で囁いた。 「どうしたんだよ、さっきから。お前らしくない」 「わかってる。ほっとけ」  ジンは苛立たしげに首を振った。集中できていないのは、自分でもわかってた。レイの事務所も、警察署も、ここからジンが聞こえる範囲にはない。それでも、気づけば彼の音を探して、意識を広げようとしてしまう。めったに乱れることのない、完璧に美しい彼の鼓動が聞きたかった。今朝になって変更になった訓練地が恨めしい。 「役割交代! 二番、確保に回れ!」 「了解!」  次のダミーが投げ入れられた。川の中ほどまで流されるのを待ってから、ジンはそれを追って飛び込んだ。水の冷たさで頭がはっきりし、目の前の現実に集中が戻っていく。とりあえず、訓練が終わったら電話を入れてみればいい。出てくれるかは、レイ次第だが。  ジンはダミーに向かって泳ぎながら、最後に一度だけと、水中で素早く意識を広げた。  上の方から伝わってくる、隊員たちの声。  水の中に暮らす無数の生き物がたてる、小さなざわめき。  そして―― 「――!」  その声が聞こえたとたん、ジンはかっと目を見開いた。  *  *  腰まで浸かった水の中で、レイは慎重に動いていた。水位が上がるにつれてがらくたが部屋中を漂い始め、下手に動くと体をぶつけるのだ。  ここに至るまでにレイができたことは、部屋じゅうの調査と、死者の霊たちからの情報収集だった。首を縦か横に振る彼らとの問答の結果、どうやらここはどこかの川底に位置した、排水処理場の一角のようだった。つまり、外から全体に水圧がかかっていて、内側から扉を破壊するのは困難ということになる。  残る可能性は、天井の穴だった。水位が上がれば、あそこに手が届き、隙間をこじ開けて出られるかもしれない。だが出られたところで、水面までどのぐらいの距離があるのか、レイには見当もつかなかった。  冷たい水は徐々に体温を奪い、レイの身体は小さく震え始めていた。着実に上がり続ける水位が、腹を濡らし、胸に達し、やがて足がゆらりと床から浮き上がる。電話は、とっくに沈んでしまった。  ここにきてもなお、レイはまだどこか事態を傍観しているような気分だった。すぐそこに開かれた暗い闇は、この二百年間ずっと見つめ続けてきたものだ。いつも前を通り過ぎるだけだった家が、ようやくその扉を開いて、レイに侵入を許そうとしている。このまま進めば、レイは初めてその向こうへ渡り、二度と戻らないことになる……。 『俺は、あんたに死んでほしくない』  ふと、脳裏に割り込んできた声があった。まだこちらの言うことを一切聞かなかった頃の、強引な彼の声だ。 『自分の安全を第一に考えろ。あんたは自分に何があっても怖くないかもしれないが、あんたに何かあったら――俺が、怖いんだ』 「……ジン」  名をつぶやいた唇に、不思議な熱が灯った気がした。レイは目を閉じた。その感触を確かめるように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。これが、自分自身の〈残声〉となるのだと思いながら……。 「あなたはずっと、これを怖がって生きてきたんですね」  水に押し上げられるまま、力を抜いてその上に横たわる。闇のふちに、足がかかるのを感じた。 「でも……私にはわからない。やはり、私にとって、最後まで……。死ぬのは、こわく……な……」  ふいにレイは、大きく身震いした。指先に、小さなキーホルダーが触れていた。何も考えずに握りしめると、爪ほどの大きさのスイッチがカチリと押し込まれた。  強烈な光が暗い水を割ったとたん、レイの全身に緊張がはじけた。突如として、ごうごうと鳴る水音が二倍になり、黒く冷たい死の刃が、手足の隅々までを一瞬で貫く。 「……いや、だ」  自分のものとは思えない声だった。しかし、それは抑えようもなく、かたかたと鳴る歯の間から、次々に押し出されていく。 「まだ、終わりたく、ない……まだ、休んでいたい……」  踊る光と闇の中に、たくさんのものがきらめいては零れ落ちていく。  春の終わりに喉へしたたり落ちた、むせ返るようなバラの香り。  夢の中を漂っていたような、遠い夏の星空。  手帳に鉛筆で書きこんだ、仕事ではない秋の約束。  そして……身のうちに甦らされた、生々しい肉の感覚。  そのひとつひとつが、知らない間に、レイの命へ熱を灯していた。 「私は――まだ、死にたく、ない……!」  身を捩ると、つむじが天井に当たった。急に手足を振り回し始めたレイの周りで、水が激しく波立ち、逆巻き、鼻と口に容赦なく入り込んでくる。レイは咳き込み、喘ぎながら、天井の隙間に手をかけ、必死でそれを押し広げようとした。尖った鉄骨材が手袋を引き裂き、白い手がゆらめく水の向こうを引っかく。 「ジン……!」  迫りくる水の中で、音にならない悲鳴がごぼりと溢れた。 「助けて、ジン……!」

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