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第35話 生と死の音③
救助艇のジェット推進音を突っ切るように、ジンは一直線に川へ飛び込んだ。意識を広げても、もうレイが自分の名を呼ぶ声は聞こえなくなっていた。濁った水の中では、時に一メートル先すら見通しが困難になる。必死に目を凝らしてはいても、心臓がひっくり返りそうな恐怖のせいで、焦りばかりが募り、目が滑った。
先に目標を特定したのはリョウだった。白色の防水ライトが向かう先に、廃屋のようなものが沈んでいるのが見える。その角から少しだけ突き出ている、死人のような白い手に気づいた瞬間、ジンの瞳孔が縮んだ。
「レイ――!」
道具を取りに浮上していったリョウを待つ間も惜しく、ジンは顔を近づけて天板を調べた。レイの手付近の板だけが、可動式になっているようだった。ここを何とかこじ開けるしかない。
恐怖が、ジンの身体を突き動かしていた。激しい息遣いが耳障りで、忙しなく吐き出される泡がぼこぼこと視界を邪魔する。ジンはリョウからバールをひったくると、天井の隙間に差し込んで力をかけた。天井板が、わずかに動く手ごたえがあった。ジンは散在している瓦礫にぐっと背中を押し当て、さらに力を込めようとした――とたん、嫌な感触とともに、背中のタンクがどこかにはまり込んだ。
同時に耳元で、ピッ、ピッ……という恐ろしい警告音が鳴り響き始めた。
『残圧限界! 今すぐ浮上しろ!』
地上からの無線は、これまでになく緊迫していた。身体に結んだ命綱が、ゆっくりと引かれ始める。しかし、それはますます廃材とタンクに絡みつき、脱出をさらに困難にした。ジンは唸り、ガチャガチャと身を捩って抜け出そうとした。尽きそうな空気よりも先に、恐怖と焦燥で息ができなくなりそうだった。鳴り続ける乾いた電子音が、自分の最期の鼓動のように聞こえる。
その時、濁った水の中から、再びリョウが現れた。天井破壊用の、大きなカッターを手にしている。リョウはジンの状況に気づくと、驚愕に目を見開き、すぐさまカッターを天井板ではなくジンをとらえる廃材に向けた。
だが、ジンの目には、リョウのライトが照らし出した、レイの顔しか映っていなかった。揺らめく銀髪の間に、立ち上る泡はない。目を閉じたその顔は、穏やかな眠りとは程遠かった。極限状態の中、かつて彼に見たことがないほどの、強い感情の痕……。
急に、はっきりと焦点が戻るのを感じた。荒れ狂う呼吸も、最期へ向かって鳴り続ける電子音さえもが、潮が引くようにすっと遠ざかる。目の前がクリアになり、たった一つのなすべきことのために、他の感覚が切り捨てられていく。
ジンはリョウの腕をつかみ、タンクと命綱を自分に繋ぐベルトへ、刃物を導いた。
「切ってくれ」
リョウは激しく首を振った。だがジンは腕時計を叩き、レイを指し、それから自分の胸を指した。胸元から緊急用の小さな呼吸器を抜いて口に咥えると、リョウの瞳に理解と苦悩の色が広がった。
「……早く!」
リョウがジンの腕を、一度だけぐっと握った。
ぶつりとベルトが切れた。重いタンク、ジャケット、そして命綱さえも……全てを手放して、信じられないほど身軽になる。ジンはすかさず廃屋の角に足を引っ掛けてもう一度支点を作ると、差し込んだバールを両手で握り、全身のバネをしならせて、全ての力を両手に叩きつけた。
バコン、と天井板が外れた。蓄積されていた数十年分の泥や木屑が舞い上がり、視界が一時的にブラックアウトする。その中で、濁りに紛れた小さなキーホルダーのライトが、廃屋からふわりと漂い出た細い身体を確かに照らし出した。空気の尽きた呼吸器を吐き捨てて、ジンはただレイへ手をのばした。ジンがレイを抱きかかえると同時に、リョウが下からジンの足裏を押し上げるように、上に向かって思いきり突き飛ばした。
水面を割って、空気と音が世界に戻った。ざばりと救助艇に引き上げられたジンは、水を吐き出して激しく咳き込んだ。
「ジン! 返事しろ!」
すぐ近くで、続いて浮上してきたリョウが名前を呼んでいる。ジンが唸るように頷くと、その顔がほっとしたように明るくなった。
「よかった、もう大丈夫だ。今は休め――」
「レイは?」
ぜいぜいと鳴る胸をおさえながら、ジンはすぐに身を起こし、それから声を失った。ぐったりとした銀髪の青年が、隣に横たわっている。
「反応は?」
「ありません」
レイを取り囲む隊員たちが、険しい顔で確認をしている。
だがジンは、彼らの声など聞いていなかった。耳を澄ませば、小さな、小さな音がする。消え入りそうな、しかしたしかな、心臓の鼓動。
生者の立てる、音だった。
「どいてくれ」
エアーバッグを探っている隊員たちを押しのけ、レイの横に膝をつく。
そのままレイの頭を抱えたジンは、一瞬のためらいもなく、冷たい唇に口をつけた。
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