3 / 20
1◇アラバスター|追放
数年ぶりに見上げた空は、相も変わらずうっすらと陰った鈍色だった。
まるで僕の宝玉と髪に似た、陰鬱な色だ。
己の処遇を、鼻で笑ってやりたいところだった。しかし、息を吸いこむことすら危うい僕は、布で隠れた表情を気遣うような余裕はない。
「アラバスター・フェルエナ殿ですね? グラスウォールより貴殿のお迎えにあがりました。グラスウォール私兵隊・隊長のシリシャスシストと申します、以後お見知りおきを」
仰々しく腰を折る男に対し、頷くこともままならない。
王宮を出た僕はひどい体調不良を抱えこんでいて、立っている事すらも苦痛という状態だった。
この異様な不調には心当たりがある――外気にうっすらと混じる毒気が、予想以上に強すぎるのだ。
息をするたびに頸飾と額の宝玉が鈍く痛む。
慣れていた痛みとはいえ、今日はあまりにも耐えがたい。
私兵隊長と名乗った男の、甲高い声が耳の奥に居座って、頭をガンガンと揺さぶるようだ。
グラスウォールからの迎えはたった二人だった。
いや、二人も居た、と言った方がいいのかもしれない。傾国の鈍ら術師など、恭しく出迎えてもらえただけでも奇跡だろう。
明の国の王都から辺境地区グラスウォールまで、川を下り半日程もかかるらしい。それほどまでに離れていれば、僕を取り巻く悪い噂すら届かないのかもしれない。
私兵隊の隊長は、淡い紅色の髪を束ねた目鼻立ちがはっきりした男だ。彼は船の上に、従者と思しき眼帯の男を伴っていた。
膝がぶつかりそうな狭い船内には、僕と紅髪の男しかいない。眼帯の男はおそらく、外で舵を取っているのだろう。
船も小さく、数人乗ればもう身動きが取れないような船上に、所せましと荷が積んであった。この中に、僕の持ち物はない。
早急にご出発の準備を――。
そう言われて広い部屋を見回したものの、自分の私物などほとんど思い当たらなかった。すべてスタトゥアリオが揃え、誂え、僕に無理やり持たせたものばかりだ。家具も、服も、装飾品も、ほんの少しの書物さえも。
結局何ひとつ持たず、長年暮らした王宮を出た。船に乗る前に顔を隠す面紗と、宝石術封じの手枷をつけられた。
勿論見送りはおろか、別れの声をかける者も居なかった。当たり前だ。普段から唯一僕に話しかける者は、今は牢獄の中に居るスタトゥアリオだけだった。
まるで罪人の扱いだ。
しかし今の僕にはそれに抗議する気力も、体力もない。
「しかしスタトゥアリオ前陛下にも困ったものですね……民の暮らしを支える政策で、前陛下が成したことなど一つもないのでは?」
……意気揚々と話を続ける男の声が、否が応でも耳に入り込み凪いでいた筈の感情を無駄に波立たせる。枷が邪魔で、物理的に耳を塞ぐこともままならない。
「民は皆、カラカッタ王女の勇気ある反乱に胸打たれていることでしょう! 元来、王都では運命の才女が国を導くという言い伝えがあると聞きますよ。カラカッタ王女はかの名君カイヤ妃の生まれ変わりとか!」
男の話は、平民が酒と暇つぶしの肴に口にする風説の類だ。
王宮で暮らしていた僕としては、十分に反論する余地がある。……特に、あの無鉄砲な末の王女と賢妃カイヤ様を同列に並べるなど、あまりにも暴論だ。
しかし真面目に議論する体力さえ尽きていた僕は、すべての感情を一旦飲み込み、その場から逃げる事を選択した。
「…………すいません、外の空気を吸っても良いでしょうか?」
「え、ああ……アラバスター殿は、川下りは初めてですか? そういえば部屋から出ることも稀だとか。それではこの揺れはお辛いでしょう! 屈強な兵士でも川の揺れは慣れぬと辛いでしょうからね! まぁ私は勿論平気ですが――よし、手を貸しましょう」
「いいえ、結構です」
差し出された手を一瞥もせずに無視をして、僕は狭い船室から逃げ出した。
今はとにかく彼の甲高く煩い声を、鼻に付く噂どまりの国政批判もどきを、これ以上聞いていたくなかった。
僕は人生の大半をスタトゥアリオに囚われ消費されてきた。
しかしそれはそれとして、何も知らぬ民が根拠もなく嘲笑う風評は好きではなかった。
――何もかも、僕にとっては想定外の出来事だった。
スタトゥアリオがカラカッタ王女に捕らわれたことも。
スタトゥアリオの装飾石 である僕が、死罪を免れてしまったことも。あまつさえ辺境国への追放などという生ぬるい処遇を受けたことも。
一晩経った今でも僕は、己の処遇に納得していない。
僕など殺しておくべきだ。
正式な手順で的確に殺し、そして僕の『宝玉』を罪人の罰として砕くべきなのだ。
明の民は身体のどこかの石を抱えて生まれる。そして命を終える際にもまた、己が抱えて生きてきた石を残す。
宝玉と呼ばれるそれは、また新たに生まれる命の糧となるものだ。ただし、呪われた石を新しい命に吹き込めば、生まれた者は僕と同じ苦しみを背負うことだろう。
罪人の宝玉は砕かれ地に撒かれて罪を洗う。
僕の宝玉を確実に砕くには、罪人として死ぬ必要がある。
どうせ生きていても苦痛が伴う。だったら早く死にたいと願いながら、それだけを糧に日々をこなしてきたというのに、僕の苦痛はどうやらまだ終わらないらしい。
曇天の下に出ると、ほんの少し頭痛が和らぐ。しかしすぐに息苦しいほどの悪心が胸から湧き上がり、意図せず膝をついてしまった。
……これほどまでに、空気が違うものなのか。
王宮の外は、王都の外の世界は、僕の想像よりも毒気が濃い。
普通の民ならば特に問題にならないのだろう。私兵隊長殿も、従者の男もけろりとしていた。僕だけが、この毒に蝕まれている。
(――迂闊だ)
(毒気を祓う水の上だからと、油断していた)
呼吸をしなければ、と思う。
しかし喉元の頸飾が締め付けるように痛み、口をあけることもままならない。
喉を押さえて喘ぐように呼吸を繰り返す僕の隣に、人の気配を感じた時にはもう、逃げるような余裕は無くしていた。
「――……船の縁近くは危険です。どうぞこちらへ」
不快ではない距離感で、そっと手が差し出された。
骨ばっているが美しい、大人の男の手だ。
先刻までの僕ならば、この善意を振り払っていただろう。しかし今はもう、あの紅髪の男の声から逃れたい一心で、どんな藁でも縋る気持ちだった。
はぁ、と息を吐いてから、僕は彼の手を取った。
「…………ありがとう。助かる……」
僕のひ弱な声帯は、相変わらずかすれた声しか出せない。それでも感謝の気持ちは伝わったらしく、眼帯の従者はささやかな声で『いいえ』とほほ笑んだ。
右の目は黒い眼帯ですっかり隠れていたものの、押しつけがましくない表情から実直な性格が伺える。
隣に立つと、彼の背の高さに驚く。柔らかい雰囲気故か、威圧感はないがしかし、古めかしい胸甲の上からでもその引き締まった身体は容易に想像できた。
男は深い黒に近い、黒褐色の髪を緩く編んでいた。
明の国の民は皆色とりどりの石を体内に持ち、そして髪と目の色は石の色を反映する。白は明の国の王族の色。
そして黒は長年敵対関係にある蛮族――石をもたぬ、宵の国の民の色だ。
故に深い黒色は、我が国では差別の対象となる。見たところ健康そうで、かつ礼儀作法も正しい好漢だ。
どうしてこんな男が辺境区域に居るのか、という疑問は髪の色を見ればすぐに晴れる。大方、その漆黒に近い黒褐色のせいでくだらない『石流し』にされたのだろう。
明の国の民、特に王都の人間は驚くほどに潔癖だ。
己の敵と見目形が似ているという理由だけで、あまりにも簡単に差別する。生まれ持った石の色は、我々にはどうにもできないというのに。
ゆっくりと僕の手を引いた彼は、船首付近の荷の上に座らせてくれた。
「ここが一番揺れません。申し訳ありません、古い船ゆえに船室に窓がなく――」
「……いい、どうせどこにいたところで、僕の不調に大差はない。ただ、あの隊長殿の張りがありすぎる声から逃れたかっただけだ……」
「あー……あの方は、そうですね、ええと……すみません、随分と繊細な話題を吹っかけていましたね……」
「聞いていたのか?」
「聞こえていたんですよ。なにせうちの隊長殿は声に張りがありすぎますから」
そう言う男の声は、静かで低く、耳の奥で沈んで溶けるように気持ちがいい。
そして彼の物言いから、やはり紅色隊長殿は少々面倒くさい人物で相違ないのだろう、と察することができる。
少なくとも僕と彼は、あの男の声が少々不快である、という共通の認識をもっているらしかった。
「横になったほうが、と言いたいところですが、生憎とここはそれほど広くありません。どうぞ荷に、背中を預けてください。……息苦しいのであれば、面紗をお取りになってはどうでしょうか」
「……グラスウォールまでは、僕の噂は届いていないのか?」
「………………噂、とは……」
「気を遣う必要はない。むしろ、この先の己の処遇を見極めるためにも、正確な情報が欲しい」
密室から出たせいか、それとも水の静謐さのせいか……ほんの少し、息が和らぐ。言われた通りに後ろに積まれた荷物に頭を預けると、僕と同じように目の前に腰を下ろした男の顔が良く見えた。
黒に近い髪色に目を引かれるが、よく見れば美丈夫だ。
それに、なぜかどこか懐かしい面影を感じる。僕の知り合いに、黒褐色の石を持った者などいただろうか?
美しい茶の瞳を細めた彼は、少し言いにくそうに口を開く。
「……アラバスター様の風評とは、どの事でしょう。前陛下の寵愛を受けて寝室から一歩も外に出なかったという噂でしょうか。それとも、顔を見た者すべてを魅了する加護を持つという噂でしょうか」
「それはどちらも風評とは言えない。事実だ」
「故に、顔を隠す面紗を?」
「外に出る時は必ず顔を隠した。ここ数年は、直接他人と会う事すらも稀だったな」
「人の心を、乱してしまうから?」
「そうだ。だから僕は顔を晒せない。どうかきみも、僕の顔を覆う布に関しては気にしないでくれ。……席を譲ってくれた心遣いには感謝する。随分と、気分が楽になった」
「先程――」
「……うん?」
「先程あなたは、気を遣う必要はない、と仰いましたね?」
「ああ――謙遜も配慮も今はただひたすらに面倒だ。言葉と表情の裏を読む気力がない……何か僕に言いたいことでもあるのか?」
「いえ、ただ……思っていたより、素直な方なのだな、と」
「……傾国のブローチは傲慢で高飛車な魔性の男だと思っていたか?」
「そうですね……辺境の地に届く風説なんてものはすべて、民の口を介して広がった与太話ばかりですから」
事実は己の目で確かめるまで分からない。
そういう事が言いたいのだろうがしかし、僕は僕についての風評を否定する気もない。僕の気性はともかく、時の権力者に囲われ王宮で贅を喰らって生きてきたことは事実だ。
ただ、目の前の男の誠実さは僕にとってかなり新鮮で、そして気持ちの良いものだった。
僕の身柄がこの先どうなるのか、おそらく王宮の宰相殿すら予測していないだろう。石流しされた民は、王都から捨てられたと言っても過言ではない。ごみ捨て場に放り込まれた石のその先など、誰が気にするだろう?
さて、投獄されるか、運よく死罪とされるか、それとも顔の良さだけを売りに身体を売らされる可能性も考えておくべきか。
本当に耐えがたい生活を強要された際は、この眼帯の男に縋ることも選択肢に入れておく必要があるかもしれない。
見たところ身分の低い従者だ。しかし非常に温厚で頭が良い。なにより僕は久しぶりに、誰かと話すことが苦痛ではなかった。
「……きみの名前を訊いてもいいか?」
僕の問いかけに、眼帯の彼は少し驚いたような顔をした後、少々悩むような間が続いた。
そして観念したかのように口を開こうとした時――。
「ディアン! ちょっといいか、頼みがあるんだ!」
船室から顔を出した『張りがありすぎる声の男』のせいで、僕達の自己紹介は形無しとなった。
「……ディアン?」
呆れた様子で声をかけた僕に、ディアンは苦笑を零す。
「そう呼ばれております。すみません、隊長殿がお呼びですので、少々席を外します」
「僕の事は気にしなくていい。きみの席を奪って申し訳ないと思っている事だけ伝えておく」
「荷物の上の椅子を譲っただけで、感謝されるいわれはありませんよ」
川は穏やかで、基本的にはほとんど操縦せずともまっすぐと進むようだ。それでも櫂を漕ぐのはディアンの役割であり、僕が彼の席を奪ったことに変わりはない。
言われた通りに背中を預けたまま楽にしていると、僕の後ろから私兵隊長殿のやかましい声が聞こえてきた。
確かにこの場所に、彼の声はよく届くと苦笑する。
「ああ、すまないなディアン! 実はちょっとね、約束があるんだ。次の橋をくぐったところで船を岸に寄せてもらえないかな?」
「……岸に? あのあたりには、特に何もありませんが」
「人と会う予定があるんだよ! いいだろ? どうせグラスウォールでブローチ殿を待っている者なんていないんだ。ぼくがちょっと寄り道したところで誰も困らないじゃないか!」
「いや、困る困らないの話ではなくてですね……」
心底頭の痛そうなディアンの声と、能天気すぎる隊長殿の声が響く。
あの無神経な男はまさか、自分の声の大きさに気が付いていないのだろうか。嘘だろう。別に何を言われようが憤るような権利はないが、正直その愚鈍さには僕まで頭が痛くなりそうだ。
「王都の連中が鈍くさいせいで少し遅れたと言い訳したら済む話だよ! なぁいいだろ、ディアン! 船に乗せてあげるって約束しちゃったんだ……!」
「はぁ? 約束? ちょっと、待っ――まさか無関係な民を遊覧目的で船に連れ込むつもりですか!?」
――成程、愚鈍どころか救いようのない大馬鹿だ。
あの狭い船室から早々に抜け出した僕の判断はあながち間違ってはいなかった。いくら世間の規律に疎く外の世界を知らない僕でも、大馬鹿野郎がディアンに無茶を強いていることくらいはわかる。
馬鹿は何処にでもいる。悲しいことに、それが王都であろうと、辺境地の私兵隊であろうと。
しかしこの馬鹿が隊長ということは、グラスウォールの私兵隊の程度も知れるのではないだろうか。彼を評価しているというのであれば、その上司であるラリマー伯爵の人間性にも疑問が出てくる。
……そんなつもりは毛頭なかったのだが、もしや逃げるべきなのだろうか。
岸に近づいた時が、逃げ出すタイミングなのかもしれない。
そう思いつつ、広く大きな橋の下を通過した時だ。
耳の横あたりに、ドスン、と衝撃を感じた。
(……襲撃!?)
反射的に身を伏せた僕が見上げた先には、積み上げられた荷に深々と刺さる太い矢柄があった。
その矢はどう見ても、僕の命を狙ったものに違いない。
急に動いたせいで、忘れていた悪心が胸の奥から這い上がる。こんな体調でなければ、まだ抵抗のしようもあった。だが僕はいま、自力で立ち上がる事すらままならない。
「アラバスター様!」
すぐに頭の上から、真摯な男の声が聞こえた。
船尾の方からは『ひえっ』という情けない声が聞こえる――僕に駆け寄り庇うように身を屈めた男は、私兵隊長ではなく、ディアンだ。
「ご無事ですか!?」
「……生憎と矢は外れた。ひどい吐き気以外の不具合はない」
「荷が多く、視線が通らなかったのでしょう。奇襲は岸からです」
「人数は」
「目視できませんが船尾にも同時に矢が飛んできました。最低二人、あとは不明。このあたりの川幅は狭く底も浅い――乗りつけられたら船を捨てて逃げる他ありません」
「船室に隠れるより、外に居た方がまだマシか――」
「ディアン! ディアン、こ、これはどういうことだよ!? 安全で簡単な仕事だって言ってたじゃないか……!」
船尾から聞こえた悲鳴は情けなく響く。隊長殿の無様な叫びをため息ひとつで流したディアンは、『楽だなどと言った覚えはありませんよ』とそれだけ訂正し、僕の手枷に手を掛けた。
「楽だ、とは思っていませんでしたが予想外の事態です。枷を外しておきます。俺と隊長が倒れた際は、どうか自力で逃げてください」
「……きみ、鍵を持っているのか?」
たしか鍵は、あの紅髪の隊長殿が受け取っていた筈だ。しかしディアンはやはり苦笑を零し、当たり前のように履物の隠しから手枷の鍵を取り出した。
「隊長から預かっています。というか早急に取り上げました、失くしたら困るものは預けない事にしていますので」
「随分と信用の無い隊長だな……きみの領地の運営は問題なく行われているのか?」
「上司も部下も有能なので、まあなんとか」
とはいえ、領主の許可もなく僕の手枷を外して良い筈もない。
いくら非常事態とはいえ、単なる従者がそんなことをしていいわけがないのだ――もしやこの男は、僕が思っている以上に権力を持つ役職なのだろうか?
がちゃん、と音を立てて、不快な枷は床に落ちた。
頭痛と吐き気がほんの少し、マシになる。それでも本領発揮とは言い難い。僕の不調は決してこの術封じの手枷のせいではないからだ。
「身を低くしていてください。つっきります」
船を加速させるため、ディアンは身体を起こして櫂に手をかける。
瞬間、彼を狙って放たれた矢を、ディアンは片手で振りかぶった剣で叩き落とした。
――いや、待て、何だ今のは……。
思わず面紗の下で、口を開けて呆けてしまった。
僕は確かに世事に疎いが、放たれた矢を自力で叩き落とす兵士など、見たことも聞いたこともない。
そんな無茶なことをせずとも、普通は防具に守りの加護が掛かっている。強く有能な術師が真面目に仕事をしていれば、加護の力だけである程度の攻撃は通らない。
宝石術は民の生活をよりよく便利にするための術であり、そしてその命を直接的に守る『守護の術』なのだ。
残念ながら今の僕には、守りの加護術はかかっていない。しかしなぜかディアンにすら、加護術の形跡がない。
……やはり彼は身分が低い者なのか? それともグラスウォールには、加護付けができる術師が一人もいないのだろうか――。
辺境地区は夜獣も多く、特にグラスウォールは宵の国と隣接している危険地帯である筈だが?
僕が疑問符を浮かべながらも呆気にとられている間にも、緩やかに進んでいた船は速度を増す。
こちらに飛び道具がないと知ってか、ひときわ狭くなった川幅の岸辺に、数人の人影が走り込んできた。
煌びやかに着飾った娼婦らしき女が二人。それと木々と同じ色の服を纏った男が二人。
その誰もが、殺傷能力を十分に備えた武器を構えている。
「……きみの隊長殿は、娼館で唆されたのだろうな」
「面目ありません……」
グラスウォールへの荷が狙われる所以もない。おそらくは僕の命が目的だろう。
おおかた何も知らぬ娼婦を装って船に乗り込み、奇襲を仕掛けるつもりだったのではないか。
彼らの目論見虚しく、ディアンは岸に船を寄せることを良しとしなかった。
だが生憎、僕は船室の外にいた。
一方的に攻撃できるとなれば、その機会を逃すはずもないだろう。自らの命を賭けずとも、矢で僕を殺せばいい。
彼らにとって予想外であったことは、ディアンが矢を叩き落とす武術の持ち主であったことと、彼が僕の枷をさっさと外してしまったことだろう。
頭が痛い。吐き気がする。最低の気分だ――。
それでも、僕は船の床に手を這わせる。死ぬことに恐れはない。だが僕は正式な手段をもって裁かれなければいけない。
そして誠実に対峙してくれた男の命を、僕如きのせいで無駄に散らせるわけにもいかないのだ。
「岸が近い……! 乗り込まれます!」
櫂から手を離したディアンが、敵襲に備えて構えた瞬間だ。岸にいた男女が一斉に船に飛び掛かる。そのタイミングで僕は宝石術を発動させた。
船を覆うように、白い防壁が構築される。
軽やかな半透明のガラスに見えるそれは強固な壁であり、ドンッ、という鈍い音を立ててぶつかったならず者たちは次々に清浄なる川へと身を落としていった。
「…………石術防壁……」
今度はディアンが呆気にとられる番だった。
まあ……あまり馴染み深い宝石術ではないだろう。
有り余る時間の暇つぶしと鍛錬の為に、と、先人が編み出した古い宝石術を片っ端から習得した。その一端であり、本来なら古臭く誰も使うことのない宝石術だ。なにせこの術は物理的に強固な代わりに、ひどく体力を消耗する。
宝石術には、それ単体で攻撃する術はない。ほとんどは加護と呼ばれる強化術ばかりだ。
石術防壁は守るだけの宝石術の中で、唯一物理的に攻撃を阻むことができる優秀な術だ、と判断した。なにより僕とディアンの二人にそれぞれ加護をかけるより、こちらの方が一気に守れて簡単だ。……体力の消耗が思いのほかひどい、という後遺症を加味し忘れてはいたが。
そういえば僕は、ひどい体調不良を抱えていた。
そのことを、うっかり一瞬忘れていた。生きるか死ぬかという状況の中で、己の不調など気にしている場合ではなかった。
「初めて拝見しました……こんな術が、今も扱える方がいるとは……」
感嘆の声を隠さないディアンに、僕は息の合間に言葉を返す。
「…………実用的、ではない、から、忘れられただけだ……今はもう、必要ない、古い術だ……」
「ほかに奇襲がないとは言い切れません。アラバスター様は船内へ――……アラバスター様!?」
ああ、だめだ。
――落ちる。
ぐらりと視線が回り、ディアンの伸ばした手を掴むことすらできずに僕は、船外へ――清浄な川の流れへと見事に落下した。
叩きつけられた水面は思いのほか痛かった。水の流れはもっと優しく、柔らかいものかと思っていた。しかし実際は息苦しくそしてひどく冷たい。
僕の体力は尽きていた。
正常な判断をすることも、正しくもがくこともできない。本能のまま喘ぎ空気を求めたせいで、口の中に大量の水が流れ込む。
生憎と浅瀬の区域を過ぎてしまっていたらしい。足もつかない川の中で、もがく合間にひどく咽る。口の端から、冷たい水がごぼりと僕の中に入り込む。
死は、覚悟していたものよりも苦しく、そして恐ろしい。
このまま、川の底に沈む石となるのか。この苦しみの果てには、静かな死があるのだろうか。それならば別に足掻く必要もないのだろうか――。
僕の力が本格的に尽きかけた時、強い力で身体を引っ張り上げられた。
「っ、はっ、ふ、……ごほっ……!」
水面から顔を出した瞬間、口から大量の水を吐く。僕の体は屈強な腕にしっかりと抱きしめられていて、だらんと力を抜いたままでも問題なく岸へと泳ぎついた。
両手を地につけて這いつくばると、背中を叩かれ水を吐かされる。次第に呼吸が楽になり、己が生きている事と、そしてディアンに助けられた事を自覚した。
「アラバスター様、お怪我は!?」
「…………っ、は……水を、飲んだこと以外は、平気だ……たぶん…………」
「良かった。船は碇を降ろしてあります。すぐに戻りましょう。泳げないようでしたら、先に俺が戻って船を――」
ふと、彼の声が途切れた。
もしやまた予期せぬ敵襲かと無理やりに顔を上げると、片方だけの目を大きく見開いたディアンが、驚愕の表情で僕を見つめていた。
その驚きようは、先ほど石術防壁を張った時よりも、数段激しい。
「…………ディアン?」
一体何が、と問いかける前に、やっと僕はその違和感に気が付く。
頭痛と吐き気が消えている。
常に僕につきまとい、そして今日は殊更ひどかったあのなじみ深い頭痛と吐き気だ。それが、今は一切ない。
しまった――清浄なる川の水に流されて、僕の中の毒気が消えてしまったのだ。
せっかく僕が集めて溜め込んだ毒気が。
ああ……まずい。
まさか、追放初日にバレるとは思わなかった。
できることなら、領主であるラリマー伯爵以外には貫き通すべき秘密を、身分も知らぬ男に曝け出すことになるとは――。
僕には、今の僕の姿がわからない。しかしこの場に美しく磨かれた鏡があれば、僕が幼少期から隠し通していた真実の姿が映し出されていたことだろう。
面紗は川に流され、僕の素顔は晒されている。
そして特殊な頸飾により溜め込まれていた毒気により変色していた僕の額の宝玉と、瞳と髪の色は、今やすっかり元の色に戻ってしまっているに違いない。
誰にも知られてはいけない色。
宮廷であっても、旧友であったスタトゥアリオと今は亡きカイヤ妃以外、ほとんど知らぬ僕の本当の色。
「――……王族の白……」
呆然と呟かれた彼の言葉はやはり、僕の真実の姿がさらされていることを物語っていた。
ともだちにシェアしよう!

