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8◆オプシディアン|帰還

 清浄なる川の水面は、激しく水しぶきを上げて俺たちの身体を飲み込んだ。  腕の中の男を抱えたまま、無理やりに岸まで泳ぎ切る。そこまで流されていないとはいえ、水の中の服は重く、一気に体力が持っていかれる感覚に震えた。 「…………っ、は……っ」  顔を出した瞬間を狙われる可能性はあった。しかし水の中では息ができない。当たり前のことだ。  先ほど投擲されたものは矢ではなく、小型の刃物だ。よく研ぎ澄まされた金属の煌めきは、明の国では見ることはない――あれは、宵の国のものだ。  となると警戒すべきは対岸か。いや、すでにこちらの森にまで侵入しているかもしれない。  一体なぜ襲われたのか、理由はわからない。しかしいきなり刃物を投げつけてくるということは、穏便に道を尋ねたいわけではないのだろう。  腕の中のアラスタを無理やりに引っ張り上げ、岸に手を付かせる。水はそれほど飲んでいないらしい、良かった。  戦闘など経験もないだろうに、うまく息をすって口を閉じてくれたらしい。有能術師殿は、こんな時でもその片鱗を隠さない。 「……なん……、っ、だ、あれは……っ」  ぜえはあと息を乱しつつ、岸の上へと這い上がる。出来るだけ身を隠せる藪のある場所を選んだつもりだが、それでも頼りない雑草は男二人を隠す程の背丈はない。 「宵の国の投擲ナイフです。すぐに避難してください。理由はわかりませんが、どう考えても敵意が――」  俺が言い終わるより先に、俺の後頭部に衝撃が走った。  それは俺を狙ったナイフが突き刺さった衝撃――ではなく、後頭部に突き刺さる筈だったナイフが白い石の壁に阻まれぶつかった音だった。  ナイフをはじいた半透明の白い鉱石の壁は、水面の如く麗しい光を反射させながらぱらぱらと崩れ落ちる。  目の前には、地面に両手を付いて術を敷くアラスタがいた。 「舐めるなよ……こと防護に関して、我が国は宵には劣らぬ」  ……ああ、そういえば、彼は宝石防壁の使い手だった。  俺はあらゆる加護を無効にしてしまう体質だ。故に、今ここにいる術師が通常の加護術しか使えぬ者ならば、投げナイフから身を守ることはできなかっただろう。  俺にいくら防御の加護をかけたところで、全て無駄になるからだ。  しかし物理的な壁を構築できるアラスタは、防御加護に頼らずとも俺を救える。 「逃げるのならばきみも一緒だ! いいか! きみは! 確かに加護が効かぬ面倒な体質だが! 事前の加護付けが効かぬなら!」 「……仰る通りですね。命が助かりました。……敵襲はどこから?」 「残念ながら対岸でも川の上でもないな。あの歪曲している川べりあたりからだ」 「明の国の領土ですね……」 「乗り込まれたか? しかし不可侵条約があるんだろ?」 「さぁ、随分昔の話ですからね。本当にそんなものがあるのか、王都で確認したという者は残念ながらグラスウォールにはおりません。皆なんとなく、『おそらくは襲ってこないのだろう』と見なしているだけです」 「…………これが宵の民の襲撃なら、大問題だろ……。それに一体どうして僕たちが狙われる」 「あー……いや、まぁ、それは、どうとでも解釈できます。俺は宵を捨てた裏切り者でしょうし、貴方はこの国でもかなり有能な術師です。もしかしたら、テラヘルツが勝手に川を渡ったことがあって、そのせいでお怒りなのかもしれませんし」 「怖い事を言うな、否定できん……」 「とにかく、私兵隊宿舎までどうにか戻りましょう。街まで戻ればそれ以上は追ってこない筈――」  濡れた服を引き摺り、立ち上がる。しかし手を差し出したところで、ガサガサと藪をかき分ける音に身を硬直させた。  姿勢を低くし、勢いで振り向く。どんな攻撃が飛んできても止めて見せる。そう思って対峙したというのに、藪から姿を現した者はテラヘルツだった。  ……だが、生憎と彼は一人ではなかった。 「あー……ごめぇーん。さすがに、これはちょっとー……悪いと思ってるよ?」  普段なら首を傾げて悪びれなく謝る男は、今は首筋に刃物を突き付けられ、両手を頭の後ろに組まされていた。顔に貼りついているのは、珍しい苦笑いだ。 「夜獣避けの薬は振りまいてたんだけど、あれサァ、宵の人達には別に効果ないんだよね……いや、知ってたけど? でもまさか本物が乗り込んでくると思わないじゃない? わっ、ちょ……っ、黙る黙る、黙りますぅ~」  テラヘルツの首に刃物を押し付けていたのは、宵の国の民に違いなかった。  鍛え抜かれた身体は引き締まり、ぴったりとした黒い服の上からでもその努力が伺える。  頭をすっぽりと覆う夜獣を象ったマスクのせいで、表情は見えない。  しかし、マスクの下に垂れ下がる漆黒の髪は確かに、宵の民の証だった。  テラヘルツを捉えた男は、じっとこちらを観察するように動かない。そのうちにガサガサと音が続き、同じく夜獣のマスクの男が姿を現した。次いで、更に二人。  ……気がつけば俺たちは、六人ほどの宵の民に囲まれていた。 「……せーので走って逃げる、のはさすがに無理か」  後ろから、アラスタのため息が聞こえる。  彼の宝石術ならば己の身を守ることくらいはできるだろうが、あの状態のテラヘルツを助けることは不可能だろう。 「ここは辺境地といえども明の国だ。僕たちは己の領地に生えた草を採取していただけだが、それはきみたちの文化では許されない蛮行だったのだろうか?」 「……アラスタ殿、煽らないでください」 「煽ってない。事実だろう。僕もきみもその男も草むしりをしていただけだぞ。唐突に襲われる謂れはない」  まったく、肝の据わったお方だ。  というかきっとこの人は、自分の命をあまり惜しんでいないのだろう。  僕など殺しておくべきだ、と、何度か聞いた覚えがある。死を願い、一度はその覚悟を決めたアラスタは、いざという時に冷静すぎて少々怖い。頼むからもう少し己の命を大切にしてほしい。  俺の心配をよそに、集まった宵の民たちは無言で顔を見合わせた様子だった。  そしてテラヘルツを拘束している男は一言、こちらに向かって言い放った。 「……全員、黙ってついて来い」  それは久しぶりに耳にする、懐かしいイントネーションの宵の言葉だった。  拘束され、ただ無言で歩く。  そして当たり前のように小さな渡し船に乗せられた俺たちは、宵の国へと足を踏み入れていた。  懐かしい――対岸の国では『毒気』と呼ばれるじっとりと重い空気が満ちている。俺は平気だが、他の二人は大丈夫だろうか……ちらりと伺ってみたが、二人とも毒気など気にする様子もなく目に映る光景に興奮している様子だった。  宵の国と明の国は、根本的に生活様式が違う。  見た目は限りなく似ているというのに、生態はまるきり別の生き物なのだ。  宵の国の民は雌雄で番となって子を成し、火を使い金属を加工し、そしてあらゆる植物と動物を食う。宵の国の民は、どちらかといえば夜獣に近い生態をしている。  生態が違うのだから、生活様式も変わってくる。  テラヘルツはともかく、王宮から外に出ることも稀だったアラスタにとって、見知らぬ作物が実をつける畑も、ところどころに炊かれた夜獣避けの松明も、すべて珍しく映るに違いない。  堅牢な門を抜け、焼いた土を重ねた巨大な建物に通される。服を乾かす暇もなく、俺たちが連れてこられた場所は古びた牢獄だった。  ああ……俺はこの場所に、見覚えがある。  宵の国の都は変わっていない様子だ。門の上に掲げられた家紋は俺の知るものだった。これはまあ、悪くない情報である。  何もかもが変わってしまっていたら、さすがに切り札の使いどころがない。 「ここで待て」  俺たちを捉えた男が無愛想に言い放つ。ここで漸く俺は覚悟を決めて、彼らに向かって初めて声をかけた。 「一体何故俺たちは拐かされたのか、教えていただけませんか」 「…………明人などに説明してやる言葉はない」 「それならば他の方を呼んでもらえませんか。俺はこの場所に知り合いが数人います」 「馬鹿な事を言うな。明人が宵人と通じているわけがない」 「城主はコンドライト様ですか?」 「――――何故それを、」 「オプシディアンが来たと、伝えてください。そうすれば俺の話も――」 「馬鹿な事を言うな。どこでその名を聞いたか知らないが、命乞いならば尋問の最中に聞く」  ……まあ、そう簡単に話がつくとは考えていない。  とはいえこれで俺は彼らの中で、『何故か城主の名前を知っている不気味な明の民』となった。運が良ければ、話が分かるものがしゃしゃり出てくる可能性はある。  聡明なアラスタは勿論沈黙を貫き、俺の動向を見守るにとどめていた。ここでは自分が声を張り上げるより、勝手を知る俺に全て任せるつもりなのだろう。  ちなみにテラヘルツはいつのまにか毒気にやられて這う這うの体だ。息をするにもきつそうだというのに、牢獄内の金属や加工物の観察に余念がないところは、普通に怖い。  しばらく後、先ほどの男が誰かを引き連れて戻ってきた。いや――誰かに従えられて、と言った方が良いかもしれない。  先を歩く男はマスクをしていなかった。  顎の下で切りそろえられた黒髪が揺れ、暗い牢獄で影を作る。 「で、どれだ、その不敬にも馴れ馴れしく主上の名を口にする明人というやつは……。ことによっては大問題だぞ……」 「そこの、その眼帯の男です……!」 「眼帯……?」  訝し気に目を細め、牢獄の中を覗き込むその男に、見覚えがあった。  思わず声をかけようとしたが――しかし、俺としっかりと目があった後、彼はあからさまに動揺し、そして思い切り顔を歪めた。ひどく、憎々し気に。  さすがに緊張が走る。俺はともかく、他の二人の命まで預かっている状態だ。  ひどく緊迫した空気の中、顔を顰めた男はゆっくりと天井を見上げ、親指で眉間を押さえ、大変長い息を吐いた。  はー……と息を吐き切った彼は直後、隣の男――俺たちを捕まえた奴だ――の頭を思い切り掴んで床に押し付けた。 「おっまえ、なんてことしてくれたんだ……! 主上の話を常に聞き流していたのか!? 馬鹿か!? 馬鹿だろ! さっさと……!」  それは確かに、旧知の男の懐かしい口調であった。 「……相変わらず見た目に寄らず気性が激しいな、ジェット……」 「ハッ! 覚えていていただけて光栄――いえまずはそんな場所から一刻も早く出てください……! 鍵、鍵をはやく持ってこい!」 「急かさなくてもいい。あー……ただ、状況説明はしてもらいたい」 「勿論でございます……!」  変わらぬようで安心した。いや安心していいのかわからないが、とにかく俺の旧友は息災だった様子だし、どうやら少々出世しているらしい。  何やら後ろの二人からの視線が痛いが、まずは気にしないことにする。後で説明をするのが面倒だ、と思う。俺は自分に関する話を開示することがとにかく苦手だ。  鍵を求めて看守たちが慌てだす傍ら、鉄格子の前に恭しく膝をついたジェットが心底辛そうに頭を抱えた。 「お久しぶりです。ご息災で何よりですと、言いたい、ところですがまさかこのような事態に巻き込んでしまうとは露ほども思わず、誠に心苦しい限りです……!」 「いや、立ってくれジェット。俺はもう宵の民ではないし、きみの上司でもない」 「とんでもない! 主上からはいつ何時貴方様が帰還したとしても最上級のもてなしで、もう絶対にこの国から出たくないと言わせよと常々命じられております……!」 「……みな、相変わらずだな、本当に」  安心したというか、呆れて少々笑ってしまった。断固立たない困った元部下に向かって俺も膝をつき、その懐かしい顔を眺める。 「随分と男前になったな。しかしこんな再会になるとは思っていなかった。どうして宵人は、明人を拉致しているんだ」 「それは……」  ちらりとジェットが顔を上げ、何とも言い難い顔で俺の後ろを見やった。……俺はともかく、アラスタとテラヘルツには聞かせたくない話なのだろうか。 「……申し訳ありません。ご説明したいところですが、私には権限がありません。しかしすぐに主上と御面会いただき、歓談の場を設けることはできると思います。ただ、その、他のお二方については少々この場でお待ちいただく必要がある、やもしれませんが……」 「身の安全が確保されているなら、多少時間がかかっても――あー、いやテラヘルツ、無事か? 随分としんどそうだが……」 「え、ぼく? うはは、ぼくなら気にしないでぇー? これはこれでサァ、すっごい経験だよ……すっごい毒気、ふふ、胸がドキドキしちゃってておもしろい~」 「大丈夫なのかそれは……」 「大丈夫だいじょうぶー、どうせこんなの、帰って解毒薬飲めばすぐ直っちゃうものー」 「アラスタは、」 「僕はもとより平気だ。この程度、毒を飲んでいた時に比べたら大したことは無い」 「心強い限りですね。ではテラヘルツはアラスタ殿に任せます」 「…………きみは、この国の王族か何かなのか?」 「それに近しい身分でしたが、今は違いますよ。何もかも捨てて逃げた俺は、ただの辺境私兵隊の副長です」 「……そうか」  気をつけろよ、とだけ言ったアラスタは、軽い手つきで俺の背中を叩いた。その仕草から、真摯に案じている様子が伝わった。  勿論、古巣だからと慢心することはない。  ここはもう、俺の過ごした場所ではないという自覚はある。なにより昔の宵人は、問答無用に明人を誘拐するような暴挙に及ぶようなことは断じてなかった。  ――何が起こっているのだろうか。辺境地までは届かない事情があるのだろうか。  言いようのない不安が胸の内に広がる。しかし、話をせねば何も始まらない。  やがて鍵を持った兵士が俺だけを牢から解放する。 「……城の中は何も変わっておりません。どうぞそのまま、主上の元へ」  テラヘルツとアラスタを残し、俺は一人、過去の記憶を頼りに足を踏み出した。

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