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〈第2部〉第13話
中岡が来るまでの間、俺は平常心を取り戻そうと必死になっていた。‥しかし、店長の言っていた通り中岡は電話を終えてから10分ちょっとで店の前にやって来て、俺は複雑な心境のまま中岡と顔を合わせることになった。
先に外で待っていた店長から連絡が入り、重い腰を上げて部屋を出る。さっきの出来事を店長はどこまで中岡に話をしたんだろうか。それを聞いて、中岡はどう思うのだろうか。不安ばかりが押し寄せてくる。
何とか自力で歩けるようになっていたものの、気を抜いたらすぐに足がもつれそうで、ゆっくり慎重に外階段を降りた。‥ほんの少しの時間稼ぎも兼ねて。
「なっちゃん!大丈夫?!」
顔を見るや否や、俺の方に走り寄ってくる中岡の姿に思わず頬が緩む。緊張しまくってたくせに、いざ顔を見ると嬉しくてたまらないくらい今の俺は中岡に心酔しているようだ。
それでもその気持ちがバレないようにと精一杯の悪態をつく。そう、いつものこと。
「‥なんで来たんだよ」
「なっちゃんが心配だったから」
「っ‥お人好し」
「ははっ‥‥うん」
優しい笑顔が胸に突き刺さる。いっそのこと、駄目な奴だと罵られたほうが楽なのに。
「‥それじゃあ店長、失礼します」
「うん、気をつけてね。中岡くん、相沢のことよろしくね」
「はい。ありがとうございました」
店長と別れを告げ、俺と中岡は明かりの少ない線路沿いを歩く。店からアパートまではそう遠くなく普段だったら10分もかからないで行き来できるのだが、酔いが回っているからか、いつもの何倍にも遠い距離に感じた。
ゆっくり歩いているにも関わらず足がもつれてふらつき、時折バイクを押して歩く中岡にぶつかってしまう。
「あ、悪い‥」
「んーん。‥平気?」
やっぱり中岡は俺を責めない。責めるどころか逆に心配までするとか‥どうしても裏があるように思えてしまうのは、俺がひねくれ者だからだろうか。
「‥怒んねえの?」
「なんで?‥むしろなっちゃんの家に行けるからちょっとラッキーって思ってるくらい」
この場の重い雰囲気を和ませるための冗談かと思ったけど、中岡のニヤけた顔を見てガチだと察して思わず吹き出してしまった。
‥もう変な詮索はやめた。そうだ、中岡はこういう奴だった。真っ直ぐで、いつだって自分に‥そして俺に正直でいてくれるところが、俺はすごく好きなんだ。
ふらつく足取りで何とかアパートに到着し、俺は外階段の前で足を止めた。
「‥え?ここ?」
「そうだけど‥」
「なんか‥イメージと違って驚いちゃった」
「は?」
「なっちゃんはこう‥オートロック付きのキレイなマンションに住んでるって勝手に思ってたから」
そういえば、中岡をアパートに連れてきたのは初めてだ。大学から近いこともあって、会うのはいつも中岡のアパートだった。‥そして俺が住んでいるのは、いま中岡が話したのとはまるで逆の建物。築31年、サビだらけで今にも抜け落ちそうな鉄の階段を登り、2階の角が俺の部屋。家賃3万のオンボロアパートにはオートロックなんて洒落たものはもちろんなくて、線路沿いだから、窓を閉めても通過する電車の音は完全には防げない。でも駅からは近いし、キッチンは広くて俺は結構気に入っている。家賃に金をかけるのは馬鹿馬鹿しい。俺はこの部屋で十分満足している。
「イメージと違って悪かったな」
「‥ううん。なんか‥ギャップが逆にエロくていい。最高」
「‥‥全然意味わかんねえ」
そう吐き捨てて俺が階段を登り始めると、アパートを眺めて突っ立っていた中岡は駐車場‥とは言い難いジャリが敷き詰められた空きスペースに急いでバイクを停めて、慌てて俺のあとについてきた。鍵を開けて部屋に入ると、「和室‥!」と再び驚いていた。
「これさー、隣に訳ありイケメンサラリーマンとか住んでたら絶対ヤバイよね‥朝のゴミ出しのときにいい感じになって、そこからお互いの部屋行き来するようになって、それで‥」
「隣?林さん?」
「だっ、誰?!林さんって誰?!!」
「76歳のじいさん」
「‥‥‥よかったぁ、禁断の恋始まんなくて‥」
「だから全っ然意味わかんねえんだけど。‥っていうか、ゴミ出しのときにいい感じになったのはお前と譜久田だろ。‥ホント、時々お前の頭ん中覗いてみたくなるわ。どういう思考してんだよ」
「え?そりゃあもちろん、なっちゃんのことでいっぱいだよ!」
「‥‥っ」
まさかの返しに顔から火が出そうになって、俺は黙って俯いた。それが嘘じゃないってもう分かるから、ただただ嬉しい。嬉しくて‥
「大丈夫?!待ってね、布団敷くから」
「あっ、待‥って」
俺から離れていこうとする中岡の腕を咄嗟に捕まえる。必死に縋ってすげえかっこ悪いけど、それ以上に、もっと中岡の近くに寄りたいと思ったから。
「なつ‥き?」
俺は一体、どんな顔をしていたんだろう。だけど、名前を呼ばれたらもう駄目だった。理性が飛ぶというのはこういうことなのだろうか。掴んだ腕をぐっと引き寄せて、バランスを崩した勢いそのままに中岡と唇を重ねた。
ふっと息を吐きながら距離を取り、驚いた顔の中岡を見て、そういえば俺からキスをしたのは初めてだったと気づいた。
「お酒の匂いがする‥」
「嫌か?」
「っ‥‥嫌じゃ、ない」
そう言って、今度は中岡からキスをくれる。優しく何度も触れる唇がもどかしくてそっと口を開くと、そのまま深く重ねられた。唇を甘噛み、舌でなぞられて思わず小さく声が漏れる。いつもなら耐えられず突き飛ばしているところだが、今日はその逆で、中岡の腕を掴む手には徐々に力が加わっていく。どうしよう、俺‥すごい興奮してる‥。
いつの間にか中岡の手は俺の頭や首筋を撫で、それでもやっぱり頬が好きみたいで、キスをしながら幸せそうに頬を撫でていた。中岡のこんな顔を知っているのは俺だけであってほしいと、自分勝手でわがままなことを願ってしまった。
もう一度深く唇を重ねられ、今度はぬるりと舌が入ってきた。舌同士が触れ合う初めての感触に一瞬体が強ばるが、その柔らかさと温かさをすぐに受け入れることができた。唾液を飲み込むタイミングをすっかり見失っていたから、口腔内に溜まった唾液のせいで舌が絡み合う度にねっとりとした音が立ち、聴覚からも色欲を煽られる。
キスをするって、これほどいやらしくて気持ちがいいことなんだと身を持って実感した。
酔いが回った頭には今のこの酸欠状態は相当きつくて、膝から崩れ落ちそうになるのを中岡の腕に支えられた。
「あ、悪‥」
「‥今日は、これで我慢する」
「は‥なんで?」
この先に進むことを覚悟していたから、しがみついたまま思わず聞いてしまったのだが。
「初エッチは酔ってないときにしたい」
真剣な表情で言う中岡に一瞬面食らって、それから声を出して笑ってしまった。
「ははっ。‥バカ真面目」
「バカは余計ですー。布団敷くね」
そう言って俺を座らせると、中岡は手際よく布団を敷いてくれた。
「今日帰んの?」
「うん、なっちゃんが寝たら」
「‥そっ、か」
布団に横になると一気に眠気が襲ってきて、飛びそうになる意識のなか俺は必死に言葉を探す。
「中岡」
「んー?」
「‥俺も‥‥セックスしたい‥。ごめんな、俺頑張るから‥」
「‥‥うん」
優しく頭を撫でる大きな手から温もりが伝わってくる。子供じゃねえんだから、なんて悪態をつく余裕はなくて、今はただその優しさに流されようと思った。
「中岡」
「ん?」
「ありがと‥な‥‥」
「‥ん」
頭を撫でられたまま目を瞑ると、俺は間もなく深い眠りに落ちた。
*
「うー‥‥あったま痛ぇ‥‥」
翌日、俺は激しい頭痛で目を覚ました。重い体を起き上がらせて、壁にもたれかかったまま寝ている中岡の姿を見たら、頭の痛みが悪化したような気がする。あー‥‥やってしまった‥。
酒を飲むとどうにも制御が効かなくなることは分かっていたはずなのに、いっときの気の迷いから色々とやらかしてしまった。覚えていないならまだしも、全て記憶に残っているからたちが悪い。
「ん‥あ、なっちゃんおはよ」
大きくため息をついて項垂れていると、気配に気づいたのか中岡も目を覚ました。小声で何とか挨拶し返すが気まずすぎてなかなか目を合わせられないでいると、中岡が盛大なくしゃみをしたから思わず声をかけてしまった。
「だ、大丈夫か?」
「平気平気!最近朝晩はちょっと冷えるね」
鼻をすすりながら呑気にそんなことを言う中岡だが、なに一人だけのうのうと布団で寝てんだよ‥と、俺は自己嫌悪に陥る。
「あ‥のさ、昨日は‥本当ゴメン」
「覚えてるの?」
「‥残念ながら、全部」
「‥‥ははっ、そっか。よかったー」
「全然よくねえよ!すげーみっともねえ‥‥っていうか、お前帰るんじゃなかったのかよ」
「それがさ、なっちゃんの寝顔見てたらそのまま寝ちゃったみたいで‥実は今、ものすっごく首が痛い」
そう言って中岡が大きく伸びをすると、ボキボキと骨の鳴る音がした。こりゃ相当無理な体勢で寝てたな。
‥そんな中岡を見ながらふと不安が過る。昨日電話のあと、俺が店の前へ行く間に店長と中岡はどんな会話をしたのか、結局分からないままだったから。
「あー‥、店長から何か‥聞いてる?」
「ちょっとだけ。なっちゃんの相談乗ってたってことと‥あと店長さんのことを少し。あ、「相沢は悪くないから」ってすごい謝られちゃった」
中岡の話しぶりから、店長は俺が相談した内容を中岡には話さないでくれたようで少しほっとした。だけど‥
「中岡、あのさ‥」
ここまで介抱してくれたんだ。恥ずかしいけど、中岡には話す義務があるだろう。
「実は俺‥一ノ瀬の激励会した日の夜、アイツらが、その‥し、してる声聞いちまったんだ。それから何か、お前とそういうことするの急に怖くなって‥。こんなこと誰に相談したらいいか分かんなくてずっと一人で考えてたんだけど、全然‥駄目で‥‥そしたら店長が相談乗るって言ってくれてさ、昨日部屋に行ったんだ。シラフじゃ無理って思って酒飲んだらこのザマで‥すげえ情けない‥」
昨日の醜態を思い出して再び自己嫌悪に陥る。項垂れていると不意に頭を撫でられて顔を上げると、いつの間にかすぐ近くに中岡がいることに気がついて困惑してしまった。
「そんな顔しないで。なっちゃん、話してくれてありがとね。‥そっかぁ、そうだったんだ。‥‥あの日さ、なっちゃんが帰ったあとフクちゃんとイッチーが息切らしてウチ来て、「なっちゃん大丈夫なの?!?!」って聞いてきたんだけど‥もー、二人が原因じゃん!なっちゃんには刺激が強すぎるよー!!」
「や‥最終的に最後まで聞いちまった俺のせいだから‥」
「いやいやいや!俺だけならコンビニに避難すれば済むけどさ、いくらラブラブだからってなっちゃんいるのに‥」
「待って、お前コンビニに避難してんの?」
「うん、時々」
「‥‥ぷっ。駄目だ、なんかもう‥不安通り越して逆に笑えてきた」
必死に堪えようとしたけど、想像したら余計に笑いが止まらなくなって、腹を抱えて笑っていた。それだけ譜久田と一ノ瀬はお互いを好き合っているんだろうと思うと、微笑ましくも羨ましくも思う。そう思えるようになったのは、きっと昨日の店長のアドバイスのおかげだ。
「なっちゃん」
「なに?」
目に溜まった涙を指で拭って中岡に視線を戻すと、いつもより少しだけ真剣な表情をしていたから、俺は小さく深呼吸して改めて中岡の方に向き直った。
「俺さ、ちょっと自信なくしてたんだ。いつも考えなしにグイグイいっちゃって‥本当はなっちゃん本気で嫌がってんのかなーとか、嫌われてんじゃないかとか、考えちゃってた」
「中岡‥」
「でもそうじゃないって分かってすっげー安心した!‥‥あ、でももうあんまりお酒飲んだら駄目だからね!特に外で!」
「なんでだよ」
「あ‥‥‥‥」
「?」
「あんなエロエロななっちゃん、危険すぎて門外不出だわっっ!!」
「なっ‥!えろ‥っ、ちがっ‥!!」
せっかく忘れていたのに、中岡のせいで昨晩の部屋でのやり取りを思い出してしまった。だからどんな顔してたんだよ俺‥!‥ホント、穴があったら入りたいとはこのことだ。慌てる俺を見て今度は中岡が声を出して笑っていたが、もはや反論する精神力は残っていなかった。
「あはは!‥俺、やっぱりなっちゃんのこと大好きだ。超エッチしたい。でも、だから‥焦んないでいこう?俺たちのペースでさ!」
なんでコイツはこう‥大事なことをサラっと言えてしまうのだろうか。こっちが散々悩んでいるのがすごく馬鹿みたいに思えてくる。‥‥でもそのおおらかさに、俺は今まで何度も救われているんだ。
小さく笑って、俺は中岡の肩を小突く。
「お前‥カッコよすぎなんだよ。そんな臭いセリフ似合うとか」
「えへへー褒められちゃった。あ、惚れ直」
「してねえ」
「相変わらずツッコみ早いから!」
そう言いながら笑う中岡は今日も嬉しそうで、俺はそんな中岡がやっぱり好きで。
中岡の首に腕を回してグッと引き寄せ、耳元でそっと囁く。
「‥嘘。惚れ直した」
「え‥なっちゃ‥」
ニヤけているのがバレないように、俺はそのままキスで唇を塞いだ。
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