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〈第2部〉第14話
10月中旬。今日もさわやかな秋晴れとなり雲ひとつない青空が広がる。時折吹く風が心地よくて、洗濯物を干し終えた俺はそのまましばらくベランダに佇んでほのかにひんやりとする秋風を感じていた。
中岡がこの家に来た日からもうすぐ二週間になる。あの日以降も、俺たちはまだキス以上の行為には進めていない。だけどそれは、俺が嫌がっているわけでも中岡が遠慮しているわけでもなく、ただキスして抱き合うだけでも十分温もりを感じられているから、少しずつ、確実に前に進めている気がして、前のような焦りはなくなった。
最近、よく昔の夢を見る。そのほとんどが今まで俺が後悔してきたことだ。なぜもっと人を信じなかったのか、なぜ素直になれなかったのか。今になってたくさんのものを失った悲しみに苛まれ、今の幸せもいずれ壊れて崩れてなくなってしまうのではと思うと‥怖い。
俺はいつの間にこんな弱い人間になってしまったんだろう。一人でいいって、平気だってずっと思っていたはずなのに、今は必死に、この居心地のいい関係を手放したくないと願ってしまうんだ。
強めの風に吹かれて思わず身震いしてしまう。足早に部屋の中に戻り時計を見ると10時を少し回っていた。
「やべっ」
そう独りごちって、俺は慌てて出かける準備を始めた。
「悪い、遅くなった」
「全然!こっちこそごめんね、急に呼び出したりして」
「平気。バイト夕方からだから」
『今日って時間ある?』
今朝、中岡からそうメッセージが送られてきた。突然の誘いだったけどバイト以外特に予定は入っていなかったから、中岡のアパートにやって来たんだけど。
「‥つーか、明日会うのに‥急用?」
「んーん、急用って訳じゃないんだけど‥明日さ、どこ行こうかずっと悩んでて。‥で、天気良さそうだからココ行こうかなって」
中岡に手渡されたのはバイクの専門誌で、開かれたページには“秋のツーリング特集”とでかでかと書かれていた。
今日から三連休で、明日は前々から出かける約束をしていた。出かけると言ってもいつも近場で済ませていたし、目的地は当日に決めるのが俺たちの定番になっていたから、こんな風に事前に予定を立てるのはなんだか新鮮だった。
「2時間くらいで行けるんだけど、この時期紅葉が凄いんだって。‥どうかな?」
「いいぜ。‥って、俺バイク乗れないけど‥」
「ふっふっふ。それはタンデムで!‥あ、二人乗りね。なっちゃんバイクの後ろ乗るの初めてでしょ?だから今日はちょっと練習!」
練習なんて当日でもいいのでは‥なんて思ったけれど、わざわざ前日にきっちり時間を取るのが中岡らしい。意気揚々と部屋を出ていく中岡の後ろを、俺は慌てて追いかけた。
「それじゃあまず‥‥はいなっちゃん、後ろからこう‥抱きついてみて」
「は?やだよ」
「なんでっ!!」
ひとり抱きつくポーズを決めている中岡に冷ややかな視線を送って拒否すると、食い気味にツッコんできたから思わず後ずさった。
「なっちゃん、これ大事だからね!掴まる練習しないと落ちて大怪我しちゃうから!!」
「‥‥はぁ、しょうがねえな」
「そうそう、経験者の言うことは素直に聞きなさい。はい、後ろからぎゅー!」
「上から目線がなんか腹立つ」
そうボヤいてはみたが、バイクの知識皆無の俺は中岡の指示に素直に従うしかない。せっかくのツーリングで怪我なんてしたくねえし。腕を伸ばして中岡にしがみつくと、背中越しに聞こえてくる心音が心なしか速いように感じた。
「‥こ、こうか?」
「‥‥‥‥」
「‥中岡?」
「‥‥なっちゃんから初めてのハグ‥」
「お前さ‥‥絶対必要ねえだろコレ!!つーか手ぇ放せよ!」
「えー!もうちょっといいじゃんー」
離れようにも中岡に手を握られて身動きが取れない。こんなとこ、知り合いに見られたら絶対に嫌だ‥‥と思ってたんだけど。
「‥二人でなにしてんの?」
「あ、フクちゃん」
「えっ譜久田?!」
振り向くと部屋から出てきた譜久田と目が合って固まった。‥タイミング悪すぎ。
「フクちゃん出かけんの?」
「おー、バスケサークルの集まり。もうすぐ大会あるから」
「そっか、いってらー。今度応援行くね」
「いいよ、お前うるさいから」
「うわ、ひっど!」
なんか普通に話してっけど‥俺抱きついたままなんですけど!!そう思って気まずくしていると、再び譜久田と目が合った。
「それにしても‥ラブラブですねぇ」
「違っ‥これは、その‥」
「羨ましいなぁ」
「だから違‥っ!!」
意味深な笑顔を浮かべた譜久田は、身動きが取れない俺の話半分にヒラヒラと手を振りながら出かけていってしまった。
最近、譜久田との関係は良好だ。中岡に全て打ち明けた日から数日後、譜久田から連絡をもらってめちゃめちゃ謝られた。悪かったのは俺も同じだし‥すぐに和解して、最近は時々大学の食堂で見かけると一緒に飯を食ったりもしているのだが。
「おい‥‥あとで誤解解いとけよ」
「え?俺は別に誤解されたままでも‥うぐっ」
「解いとけ」
「‥‥はい」
掴まれたままの腕にグッと力を入れると、中岡は情けない声を上げて力なく頷いた。
このあと、バイクの乗り方や体の傾け方を色々教えてもらった。簡単そうに見えてなかなか奥が深いんだなと感心しつつ‥掴まるのは軽く腰に手を回すだけって聞いて本気で中岡をどついてやった。
一時間程練習したあと、近所の定食屋で昼飯を食いながら軽く明日の打ち合わせをする。ガイドブックと地図を見ながらこの時期おすすめのスポットを数か所絞って、行き先の目星はだいたいつけた。
「メットは俺が前に使ってたのがあるし‥あとはグローブか。バイト行く前に店寄るかな」
「店近いの?俺も行っていい?」
「もちろん!あとは‥あ!合図決めよっか」
「合図?」
「うん、走ってるとき話せないからね。そうだなぁ‥‥怖かったら肩叩いてくれる?スピード落とすから。そんでトイレは‥‥」
合図とか‥なんかすげぇワクワクする。こんな気持ちになったのは久しぶりだ。
「‥こんなもんかな。なっちゃんオッケー?」
「ん?ああ、オッケー」
「ぷっ‥なっちゃん、ソレ」
「え‥‥あ」
中岡につられて思わずOKポーズを決めていた俺は、その手を慌てて引っ込めた。
*
翌日。予報通り見事な秋晴れに恵まれ、絶好のツーリング日和となった。朝9時すぎ、バイクのエンジン音が聞こえてきて家を出る。
「なっちゃんおはよ」
「はよ」
「よく眠れた?」
「おー」
楽しみでなかなか寝つけなかった、というのは黙っておこう。
昨日買ったおニューのグローブと中岡のお下がりのメットを装着して、練習通りバイクの後ろに乗り込むと再びエンジンがかかる。
「準備オッケー?」
「おう」
「それじゃ‥安全運転でいきます!」
「ははっ、よろしく」
伝わってくる振動に子供みたいに胸を踊らせて、俺は中岡の腰に手を回した。
連休中ということもあり国道は結構混雑していたが、裏道を使いながら渋滞を上手く避けて順調に目的地に向かう。宣言通り、中岡は超がつくほどの安全運転をしてくれて、初めての二人乗りだったけれど不思議と怖くはなかった。
目的地へ着いたのは昼前だったが、たくさん並んだ食堂にはもうすでに行列ができていて、俺たちは目星をつけていた豆腐の美味い店へと急いだ。
「これどうやって味付けしてんのかな?」
「ダシが違うのかな‥あ、でも豆腐自体にも甘みがあるし‥」
美味いものを食うと、感想よりも先に味付けや調理方法が気になってしまうのがいつもの俺たち。真剣な顔で議論したあと、お互いふと我に返り顔を見合わせて笑い合う。
「「ウマいっ!」」
手作り豆腐も湯葉も厚揚げも、そして食後の豆腐ドーナツも綺麗に完食して、俺たちは再びバイクに乗って最終目的地へと向かった。
「到着ー!」
食堂街のある通りからさらに20分ほど山道を走ったところにある小さな神社。バイクを停めて朱色の門をくぐると、そこには別世界が広がっていた。古びた社殿と、それを囲うように植えられた銀杏や紅葉の色彩に目を奪われる。
「すげ‥」
「ここ、メインの紅葉スポットからちょっと離れてるから‥超穴場!」
確かに、この時期にしては観光客がそれほど多くない。きっとツーリングをする人たちの隠れスポットなのだろう、ライダースジャケットを着た若者が多い気がする。参拝したあと、すれ違う人と時折軽く会釈しながら俺たちは境内を見て回った。
「周り、少し歩いてみよっか」
「そうだな」
神社の外に出て道路沿いを少し行くと、山沿いはもうすっかり色づいていて、路肩にバイクを停めてその景色を眺めるライダーを何人も見かけた。
「ここね、紅葉も綺麗だけど、春は桜がすごいんだって。一目で千本見られるって‥どんなんだろうね」
道幅が少し広くなった展望スペースで中岡の説明に耳を傾けながら、俺は目の前に広がる紅葉を無言で見つめる。今まで大して興味もなかったことが、誰かのおかげでこんなにも自分に大きな影響を与えるなんて。ちっぽけな俺の世界を広げてくれる中岡には、感謝してもしきれない。
「なっちゃん、ちょっと寄りたいところあるんだけど‥いいかな?」
「おう、いいぜ」
神社へ戻る途中、中岡にそう言われて俺は二つ返事で了承した。いつもなら行き先が気になってすぐに聞き返すのだが、今日は知らなくても気にならない。‥どうやら俺の冒険心に完全に火がついたようだ。
山道を下り、街から外れた小高い丘を登ると中岡はエンジンを止めた。バイクを降りてメットを外した俺は思わず息を呑んだ。
「ここ、俺のお気に入りの場所なんだ」
丘の上にある小さな公園。駐車場から見下ろすと夕日に照らされた街並みが一望できた。オレンジ色に染まるその景色は、先程見た紅葉に引けを取らない‥いや、それ以上の絶景で、俺はしばらくそこから動けなかった。
「嫌なことがあって凹んだときとか、時々ここにドライブしに来る‥‥って、なっちゃんが美人なのは知ってたけど‥」
「‥え?なに?」
「‥‥特に横顔ハンパなくない?」
「は?」
‥そんな真顔で俺に聞かれても。つーか‥
「だから美人とか‥」
「あ!嬉しくないんだよね、ごめんごめん。んー、それじゃあ‥‥好き」
「は?!なに‥」
「俺はなっちゃんの顔、好きだな」
俺は、昔から自分の顔が嫌いだった。周りから色々言われる度にその思いは徐々に酷くなって、今では相当なコンプレックスだ。‥だから、自分の大嫌いな部分を“好きだ”とこんなにもはっきり肯定されると、なんだか不思議な気持ちになる。俺が「好きじゃない」なんて言うのもおかしな話だから反論さえできない。
「ぷっ、眉間にシワ寄りすぎ!そこは喜んでくれたら嬉しいんだけどな」
「‥こんな女顔のどこがいいんだよ。俺は‥お前みたいな顔が良かった」
「それって‥俺の顔好きってこと??」
「!‥あっ、いやっ‥‥も、もういいだろ、顔の話はっ!」
「えー!聞きたいー!」
子供みたいに口を尖らせて駄々をこねる中岡をスルーして、俺はもう一度目の前の景色に視線を向ける。
“好き”
その2文字が素直に言えない天の邪鬼な性格を時々ものすごく恨む。
そんな俺の考えを察してかはたまた素なのか、中岡は畳み掛けるように言葉を続けた。
「あ!もちろん顔だけじゃないからね!全部ひっくるめて、なっちゃんが好きだから」
今きっと、めちゃめちゃ顔が赤い。だけどそれは夕日のせいってことにしよう。
そんな風に自分自身に言い聞かせて、俺はそっぽを向いたまま無視を決め込んだ。
「だいぶ冷えてきたね。そろそろ帰ろっか」
「あ、のさ」
「ん?」
「今日は‥楽しかったぜ」
「ホント?良かったー!‥実はさ、俺ばっかり盛り上がってたらどうしよーって内心ドキドキしてた」
中岡が胸をなでおろす姿を見て俺も一安心‥‥つーか俺、そんなつまんなそうに見えてたのかな‥
「なっちゃんあのさ。‥またこうやってドライブしない?後ろ、いつでも空けとくからさ」
「‥や、やめとく」
「‥‥え、もしかして俺‥今フられた‥?!」
「あ、いや!そうじゃなくて‥」
流石に毎回二人乗りは恥ずかしいし、なにより俺の心臓が持ちそうにないから‥
‥なんて言えるわけもなく。
「‥‥俺も、二輪の免許取る」
「‥まさか‥なっちゃんツーリングに目覚めた‥?!」
嬉しそうに覗き込んでくる中岡の瞳は、夕日に照らされて一層キラキラと輝いて見えた。
「‥おう」
「マジで?うわー超嬉しい!」
その返事はあながち嘘じゃない。楽しかったのは事実だし、風を切って走る心地よさを知ってしまったから‥今度は自分で運転したいと思うのが男の性ってやつだ。
それに、身近に“大先輩”がいてくれることが何よりも心強い。
「そのときは一緒にツーリングしてくれるか?桜、見に行きたいし」
「もちろんっ!!!」
「声でけえ」
食い気味に返事をして勢いよく飛びついてきそうな中岡の顔面を手で押さえる俺の顔は、見事なまでに緩みまくっている。
中岡が喜んでくれて、凄く嬉しかった。
来るときよりも少しだけ慣れた様子でバイクに跨り、中岡の腰に腕を回す。
「あーーー!!そっかーー!!」
「えっ何?!」
急に大声を出すから思わず落ちそうになって、慌てて中岡にしがみついてしまった。
「なっちゃんも免許取っちゃうと、この美味しいシチュエーションが‥」
「‥‥‥」
「タンデムツーリングとか密着度ハンパないよな‥しかもなっちゃんからのハグとか‥。それできなくなるのは‥正直ツラい‥!!!」
「‥全部聞こえてんだけど」
紛うことなき下心は毎度清々しささえ感じる。バッと後ろを振り返った中岡の真剣な表情に一瞬ドキリとしてしまったのだが。
「なっちゃんが免許取るまでの間は、こうやってツーリングしてもいいでしょ?」
「‥ぷっ。しょうがねえな」
「へへっ、やった!」
堪えきれず吹き出して、そして改めて愛されているんだなと感じた。前までは重荷に感じていたそれも、今はただただ嬉しく思う。
「よーし、じゃあ帰ろ!」
「安全運転でよろしく」
「オッケー!」
今日見た最高の夕焼けは、きっとこの先忘れることはないだろう。エンジン音と風の冷たさと、そして中岡の背中から伝わってくる温もりを感じながら、いつまでもこんな日々が続けばいいのにと切に願った。
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