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〈第1部〉第1話

4月。 数日前の雨で僅かに残っていた桜も全て散ってしまい、少し寂しさが漂う新学期。大学2年になった俺は、大きなアクビをしながら少し長めのアッシュグレーの髪をガシガシと掻き上げる。時が経つのは早いもので、希望の大学に合格し、ひとり暮らしを始めてから気づけばあっという間に1年が経っていた。 大学1年の夏休み、スタッフ募集の記事を見て料理好きな自分にはぴったりだと思い即電話したファミレスのキッチンのバイトも、今では後輩の指導を任されるまでになり、連日サービス残業が続いていた。人に頼られるのは嬉しいと思ってしまう性分なので別にそれが苦ではないのだが、最近本業である学業が疎かになっていると感じていて、正直もう少し休みが欲しいところだ。‥が、残念ながら本日もこのあとバイトである。 俺が通うのは、関西ではそこそこ有名な私立大学だ。農学部というだけあって至るところにたくさんの種類の木々が植えられ、今日も所々に置かれているベンチには友人と会話をしたり読書をしたり、思いのままに過ごす学生の姿が多くみられる。 「ねーカノジョひとり?」 「これから俺らと一緒にどこか遊びに行かない?」 バイトまでどうやって時間をつぶそうかぼんやりと考えていると、そんな会話が耳に入ってきた。いまどき強引なナンパだな、と何気なく声のする方へ視線を送ったんだけど‥ベンチに座って俯いたまま肩を震わせている女性の姿を見た途端、いてもたってもいられなくなる。 昔からそうだった。困っている人を見たら放ってはおけない、厄介なことに俺はそういう質なのだ。男子学生が強引に腕を掴んだのを見て、自然と体が動いていた。 「おい、いい加減にしろよ」 「は?何?」 突然声をかけられ、さも迷惑そうに眉をひそめてこちらを睨んでくる二人組に全く動じることなく、俺は淡々と言葉を続ける。 「嫌がってんのが分かんねーの?」 「うるせぇな、ヒーロー気取りかよ」 関係ないだろとさらに捨て台詞を吐いて、一人が勢いよく俺の方へ突っ込んできた。面倒なことになりそうだ‥と声をかけたことを後悔したけれど、それよりまずはこの危機的状況をどうにかしなければ。そう思って身構えた時だった。 「うわっ」 「「?!」」 突然、ドスンという音とともに男の呻き声が聞こえてきた。目の前の奴と同時に音のする方へ振り向くと、男子学生の一人が先程の彼女の足元に倒れている。‥一体何が起きたんだ?あまりにも突然の出来事で、俺の頭は処理能力を完全にオーバーして、気づいたら目を見開いたまま固まっていた。 「おい、大丈夫かよ。‥っ、このアマ‥」 おいおい、さっきナンパしてた相手に何てこと言うんだよ‥本当最低だな。‥‥いやいや、そんなことよりも。今は彼女を助けるのが先決だ。今にも殴りかかりそうな勢いの男子学生を止めようと、俺が慌てて手を伸ばしたその瞬間――― それはまるでスローモーションを見ているかのような、不思議な錯覚に陥る。 真正面から勢いよく突っ込んでいった彼はひらりとかわされ、すれ違いざま襟を掴まれたわずか数秒あとにはもう、その体はフワリと宙を舞って先程の男子学生と同様、大きな音を立てて彼女の足元に横たわったのだ。 その一連の動作は流れるように自然で、とても静かで‥だけど俺の目にはっきりと焼きついた。現実離れしたその瞬間を目の当たりにした俺は、驚きと奇妙な興奮でしばらくその場から動けなかった。 はっと意識が現実に戻り、俺は彼女の方へ視線を戻す。‥と、思ったよりでかい。180ある自分と比べたら小さくは見えるが、それでも女性にしてはだいぶ大柄な気がする。 左耳にゴールドのフープピアス、短めの黒髪にはピアスと同じ色のメッシュが入っていて、前髪が眉毛の位置で切り揃えられているため猫っぽい切れ長の目がよく見える。下まつげが印象的で、その整った顔立ちは“美人”という言葉がピッタリだと思った。 凛と佇む姿に目を奪われていると不意に目が合い、鋭い目つきで思いっきり睨まれた。その迫力に思わず動揺してしまったが、俺は慌てて彼女の元に駆け寄った。 「あの、大丈‥」 「余計なお世話だ」 声をかけた途端、そう言い放って颯爽と去っていく背中を、俺はまだ混乱する頭で呆然と見送るしかできなかった。 「‥‥声、低っ‥」 ‥つーか男だったのかよ。てっきり女性だと思い込んでいたから、イメージとリアルの差に心の声が思わず漏れた。 「あ‥」 ふとベンチに視線を落とすと、置き去りになっている定期券の存在に気づいた。‥おそらく先程の彼のものだろう。あんな態度を取られたんだ、届けに行く義理はない。そう思って一度は素通りしたのだが‥ 「あーーーもうっ!」 世話焼き精神が仇となり、俺はベンチに駆け寄って定期券を引っ掴むと遠ざかっていく彼のあとを慌てて追いかけた。

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